『貧乏物語』九の六 はばかりながら…

現代語訳

はばかりながら私が思うに、アダム・スミスの間違いの第一は、ひたすら儲けることだけが経済の使命だ、とした点だ。それは彼自ら「経済学の大目的は、一国の富と力を増大させることだ」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、三五一ページ)と言っていることでわかる。

だが考えてみれば富というのは、元来人生の目的――人が真の人となること――を達するための、手段の一つにほかならない。だから富がどれだけ必要かと言えば、自然と一定の限度があって、決して無限に儲けようとするべきではない。同時に社会全体から見れば、富の生産が必要なのと同じ程度に、その分配がまともであることが必要になる。

もしその分配がいびつで、ある者は多すぎる富を所有して、必要以上に浪費しているのにもかかわらず、ある者はその必要をぜんぜん満たすことが出来ないのなら、たとえ一国全体の富がどんなに豊富に生産されていても、とてものこと健全な経済状態とは言い難い。

しかも、どんな富をどれぐらい生産するかを必要に応じて区切り、その分配を最も理想的(平等とは違う)にしようとするなら、現在の経済組織をそのまま維持し、すべての産業を民営に任せ、しかも各事業家が自己の利益のためだけに儲けるままに放任しただけでは、到底その実現は期待できない。

アダム・スミスの間違いの第二は、お金で値付けした富の価値を、そのまま人生の価値の基準にしたことだ。彼は一国内で生産される商品の代価を総計して、その金額が多くなりさえすれば、それが社会の繁栄であって、これより喜ぶべき事はないと考えた。

だとするなら世間の事業家は、別に国家から命令されたり干渉されたりしなくても、ただ自己の利益を追求するため互いに競争して、なるべく値段が高く売れる商品を作り出すに決まっている。だからもし我々が、社会を経済的に繁栄させようとするなら、全てを私人の利己心の、最も自由な活動に任せておくに限るとスミスは考えた。

しかしすでに中編で説明したように、最も高く売れる物が生産される状態とは、単に社会の需要が最もよく満たされている、それに過ぎない。ここで言ういわゆる需要とは、購買力を伴った要求ということで、ただ金持ちの要求というだけに過ぎない。とするなら、単に需要によってのみ一国の生産力を支配することの不合理は、言うまでもない。

その理由は第一に、要求があるからそれを満たすというのは、必ずしも社会公共の利益にならないからだ。おおぜいの者の要求のなかには、それを満たすことが本人のためになんの役にも立たないだけでなく、他人に害を及ぼすものが少なくない。

第二に、各種の要求のうち、どれを先にすべきかについて、単に需要の強弱(つまりはその要求者が出せるお金の多少)だけで決めるなら、分配の制度が理想的でない限り、決して理想的に社会の生産力を利用することにならないからだ。

以上述べた話は、個人主義の理論上の欠点だ。もし現代の経済組織の下で、利己心が束縛なく活動した末に、悲しむべき不健全な状態を作っているのが事実ならどうだろう。その結果、一方では豪邸に住んで黄金の杯にブドウの美酒を満たす者がいて、他方ではボロをまとい家々の門前に食を乞う者がいるとしよう。

多少でも血の通った人間なら、のほほんとして見過せない、こうしたいくつもの悲惨な現象が、どんなに我々の眼前に展開されているかという話は、すでにこの物語の上編でそのあらましを述べた。だからどうか読者は、自分で世の中の有様をよく眺めて、今の世で経済組織を改造しようとする勢いが、だんだん強くなっていることには、決して理由がないわけではないと知ってください。
(12月1日)

スポンサーリンク

訳注

※:のほほんとして見過ごせない:原文「カイ乎(かいこ)として見て過ぐるあたわざる」。この現代語訳で初めて諸橋大漢和辞典を出し、初めて外字を作った。
カイ(カイ)

然り、原文にはググろうがコード表を検索しようが、どうにもならない言葉があるということだ。その中で価値あるものが、今失われようとしている。

なお辞典によると、「カイ」の語義は以下の通り。
1.心配がない。
2.心にゆとりがない。憂える。
どうせいっちゅうんじゃ、と言いたくなるが、漢語漢文にはよくあることで、一々気にしていたらシノロジストは務まらない。それは同時に、河上先生の原文から徹底的に、訳者が漢文的表現を取り除くゆえん。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)