現代語訳
私は前回で、貧乏根絶策として考えられるものが三策あると述べた。すでにその大要を説き終えたが、まだちょっと十分でないところあるから、本日は重ねて同じ話を繰り返す。
今日、経済上の技術はすでに非常な進歩を遂げた。それなのになぜ、生活必需品の生産が充分に行なわれず、肉体の健康維持に足るだけの衣食さえ、多数の人々が入手できないのか。それはすでに述べたように、金持ちがその余裕に任せて、みだりに各種のぜいたく品を欲しがり、天下の生産力の大半が、こうした無用有害な商品の生産に吸収され尽くすからだ。
ならばもし、世間の金持ちが一切のぜいたくを止めたらどうだろう。たとえ社会には甚だしい貧富の格差が残り、また社会の経済組織もすべて今と同様でも、私の言うような貧乏人、つまり金持ちと比べて貧乏なのでなく、肉体の健康を維持するだけの生活必需品さえ入手できない貧乏人は、すべて世の中からいなくなるはずだ。これが、金持ちのぜいたく廃止が貧乏退治の第一策と、私が主張する理由だ。
しかし今の金持ちが、自ら進んで質素倹約に励まなくても、何かの方法で、金持ちがますます富もうとする勢いをおさえ、金持ちに比較して言う貧乏人の地位を、徐々に向上させたらどうだろう。貧富の格差の甚だしさを正し、一般人の所得を比較的平等に近づかせることが出来れば、われわれはその方法だけでも、貧乏退治の目的を達することができる。
一般人の所得に甚だしい差異がなければ、一国の購買力は自然と、社会の最大多数の人々の必需品に向かって振り向けらるだろう。〔今同様〕生産者は全て自己の営利だけを目的とし、需要がある商品だけ、言い換えれば買い手のある商品だけ生産しても〔、金持ちがいないから、ぜいたく品が生産されないから〕だ。※
社会の経済組織が全く現在同様でも、無用有害のぜいたく品ばかりうずたかく製造され、多数人の生活必需品の生産は捨てて顧みられないような悲しむべき状態は、幸いにも無くなるだろう。これが、貧富の格差是正が貧乏退治の第二策と、私が主張する理由だ。※
そこでさらに考れば、たとえ第一策も第二策も行なわれなくても、今の経済組織を改造できれば、やはり貧乏退治の目的を達成できる。少なくともそういう事を思いつく人がいるはずだ。なぜなら多数人の生活必需品が、現在充分に生産されないのは、商品生産という大切な事業を、私人の金もうけ仕事に任せっ放しにしてあるからだ。〔同じく大切な〕一国の軍備でも教育でも、もしこれを私人の金もうけ仕事に任せるなら、到底その目的を果たせない。
それなのに軍備よりも教育よりもなお一層大切な生活必需品の生産を、現在では私人の金もうけ仕事に任せるから、それで各種の方面で、残念な話が絶えないのだ。だから現在の貧乏を退治しようとして、経済組織の改造を企て、私人の営利事業のうち、国民の生活必需品の生産調達は、全て国家事業に移そうという思想が出て来るわけだ。これが経済組織の改造を、貧乏退治の第三策と、私が主張する理由だ。
そこで私は都合上、まずこの第三策より検討する。
(11月14日)
訳注
※この2段落、もとは1段落構成で、しかも入れ子構造になっている。もともと河上先生の文章には重文・複文が多く、現代文章語として適切ではないので、文の前後など、構成を含めて改めた。要するに、文が練られていない。文字の順通りに論理を追っていくと、おかしくなっている。
現代日本語、とりわけ文章語は、明治以降に発明されたもので、自然に出来上がったものではない。夏目漱石などの大家が苦労を重ね、徐々に出来上がったものだ。それに参加した知識人には、当然欧米諸言語、とりわけドイツ語に親しんだ人も多かったから、重文複文をものともしない、戦前の文章日本語が出来上がった。
その経緯はともかく、複雑な構造の文章は、読みやすい・理解しやすいとはとても言えず、現代語としては失格と訳者は判断した。今回以外でもことわり無く、文章を切って訳した箇所が多数ある。河上先生も「近来しきりに疲労を覚え、すこぶる筆硯にものう」いからには、文を練る前に締め切りが来たと見える。
なお訳者は経済の素人だが、河上先生の策はうまくいかないと直感する。ぜいたく廃止で雇用が無くなること、例えば江戸期に例があるからだ。どの策もソ連の失敗によって、うまくいかないことが明らかだからでもある。
ただしそれは、後年のあと知恵というもので、ロシア革命前後のこの時期には、まだ輝きを持っていたと知れる。訳者は思想的に、河上先生と相容れないが、だからといって後世の目で、過去を糾弾するのはやめにしたい。