現代語訳
下編 どうすれば貧乏を根治できるか
今や天高く秋深く、まさに読書にいい季節だが、著者は近ごろしきりに疲労を感じ、筆を執るのも墨を磨るのもおっくうだ。そんなわけでこの物語なども、中絶することすでに二三週、今やっと再び筆を執るとはいっても、老いぼれ馬に鞭をふるって急坂を登るようなものだ。
そもそも、貧乏は社会の大病である。これを根治しようと願うなら、まずは深く、その病源を探る必要がある。それが、わざわざ中編を設けて、とりわけこの問題の追求にあてようとした理由だ。それなのにせいぜい、〔ここまで〕おおざっぱな話を終えただけで、〔きちんと〕議論を尽くしていないのが今も多いけれど、だめ押ししてもきりがないだろう。だから私はひとまず以上で中編を終え、これより直ちに下編に入ることにした。下編はとりもなおさず、貧乏退治の根本策を論じるのが主題だから、当然、この物語の眼目である。
ここで議論を進めるため、もう一度中編で述べた話の要旨をまとめよう。というわけで、それを次の数言にまとめることができる。つまり、
(一) 現在の経済組織が維持される限り、
(二) また社会にはなはだしい貧富の格差がある限り、
(三) そしてまた、金持ちがその余裕に任せて、やたらと各種のぜいたく品を買い、欲しいものを買う金がある限り、
貧乏を根絶することは、到底望みがない。
今日の社会に貧乏が絶えない理由は、つまりこういうことだ。それでももし私が、この社会から貧乏を根絶せねばならないと思うなら、この三つの条件を検討して、その方策を立てるしかない。
第一に、世の金持ちが、もし自ら進んで一切のぜいたくをやめれば、貧乏存在の三条件のうちその一つが欠けるから、それは確かに貧乏退治の一策になる。
第二に、何かの方法で、貧富の格差がはなはだしいのを改めさせ、社会一般人の所得に著しい差がないようにすれば、これもまた貧乏存在の一条件がなくなるから、それも貧乏退治の一策となりうる。
第三に、今日のように各種の生産事業を私人の金もうけ仕事に任せないで、たとえば軍備や教育のように、国家が自らこれを担当するなら、現在の経済組織はそれによって著しく改造されることになるが、これもまた貧乏存在の一条件をなくすことになって、貧乏退治の一策として、当然人が考えつくところだ。
さてわれわれが今、当面の問題を単に机上の空論として取り扱うつもりなら、われわれは理論上、以上の三策にほぼ同一の価値を下せる。しかし、それを採用して直ちに今の世で行おうというなら、当然、別に細部を詰めた検討を加えねばならない。
たとえば、難治の大病で長く入院していた者が、近ごろ次第に快方に向かったので、退院を許され、汽車に乗って家に帰ろうとしたとする。ところが不運にも、汽車が途中で転覆して、その人も重傷を負って死んだとする。この例を見れば、もし汽車が転覆しなかったら、この人は確かに死ななかったはずだ。しかしたとえ汽車は転覆しても、もし病気が快方に向かわねば、この人は退院も許されず、従って家に帰るはずもないから、やはり死を免れたはずだ。
となればこの人の死を救おうとすれば、われわれはこれら二条件のいずれか一つをなくせばよい。しかし汽車の転覆を止める方策を講じるのは差し支えないが、その人の病気が良くならないよう方策を講じるのは間違いだ。もしずっとそんな事をしたら、その人は汽車でけがをして死ぬことはなくても、しまいには病院のベッドで、医者に脈をとられつつ死ななければならないからだ。
だから以上述べた貧乏根治策のうち、ともするとこれに似たものがないかどうか。従って上記三策の長所短所と、お互いがどう絡み合うかについては、当然、さらに慎重な考慮が必要だろう。というわけで私に、静かに考えたところを話させて下さい。
(11月11日)
訳注
河上先生は各編の冒頭になると、漢語調の文体になる傾向がある。この回も同じ。訳者が推論すると、掲載した大阪朝日新聞の読者に、どれほど読解できた者がいたかと思われる。日々聞かされた教育勅語をついに、一言半句も理解できなかったという証言があまたある以上、読者層が中等以上の教育を受けたか、あるいはわかる者だけが読んだかのいずれかになる。おそらくは、後者だろう。