『貧乏物語』七の二 考えてみれば…

現代語訳

考えてみれば、生活必需品に対するわれわれの需要には、自然と一定の制限がある。かつて皆川淇園(みながわきえん)はこう言った。お酒を何本も飲めば味がわからなくなり、肴(さかな)がいくつもあれば美味しくない。煙草をどんどんふかせば苦いし、お茶を何杯も飲んだら、香りも何もあったもんじゃない。

本当にその通りだ。たとえばいくら酒好きの人で、初めのうちは非常にうまいと思って飲んでいても、だんだん杯を重ねると、それに従って次第次第に、もういいや、という一点に近づいて来る。そうして一旦その点に達したら、それから上は、どんな酒飲みも、もういやだという事になる。

いくら食物が人間の生活に必要だといっても、いわゆる、食前方丈なるも甘んずる所一肉の味に過ぎず〔大ごちそうも旨いのは肉の一かけに過ぎない〕というもので、日に五合か六合の飯を食えばそれで足りる。

それより以上は食べたくもなし、食べられるものでもなし、食べても体をこわすばかりだ。だからいかなる金持ちでも、その胃袋の大きさは、貧乏人と大して違いはなく、足もやはり貧乏人と同じように、二本しかない。だからその者が自分で消費するために金を出して買う、米とか下駄とかいうものには、おおよそ一定の限度があって当たり前だ。

だからこそ、これら金持ちの人々の需要の大部分は、自然と奢侈品(しゃしひん)に向くわけだ。米を買ったり下駄を買ったりしただけでは、まだたくさんの金が残る。だからその有り余る金を、ことごとく奢侈品に向ける。そこで奢侈品に対するきわめて有力な需要が起こると同時に、生活必需品に対する貧乏人の需要などは、全く圧倒されてしまう。

そういうわけで今日の経済組織の下では、天下の生産者はただ需要がある物だけを生産し、たとえいかに痛切な要求がある物でも、その要求に資力が伴っていない限り、全く気にもしないことを原則としている。これこそが今の時代に、無用有害な奢侈ぜいたく品が、うずたかく生産されているにもかかわらず、多数人の生活必需品が、はなはだしく欠乏している原因だ。

たとえば、貧乏人がわずかばかりの金を持ち出して来て、もっと米を作ってくれと言ったところで、そう安く売っては割りに合わないから、だれも相手にする者はない。

そこへ金持ちが出て来て、世の中にはずいぶん貧乏人がいて、米の飯さえ腹一杯よう食わぬ人間がいるということだが、さてさて情けないやつらである。おれなぞははばかりながら世間月並みのお料理にも食い飽きた。落ち込んだ人の前で歌を歌うなという言葉もあるが、それはどうでもよいとして、きょうは何か一つ、ごくごく珍しいものを食べてみたい。

しかし一人で食べては面白くない、おおぜいの客を招き、山海の珍味を並べて皆をびっくりさせてやろう、などと思い立ったとすると、彼はさっそく料理人を呼ぶ。そうして、金はいくらでも出すから思い切って一つ珍しい料理をしてみてくれ、まず吸い物から吟味してかかりたいが、それはほととぎすの舌の澄し汁とするかなどと命じたなら、さっそくおおぜいの人がほととぎすを捕りに、山に入るというような事になる。

その分だけ、たとえば米を作るなら、米を作る人の数が減ることになる。こうして米を作る人が減ってくれば、それに応じて米の生産高は減じ、従って米の値も高くなるだろう。しかしいくら米価が上がっても、金持ちにはいっこうさしつかえはない。ただ困るのは貧乏人で、わずかばかりの収入では、家族一同が米の飯を腹一杯食うことさえできない、ということに、だんだんなってくるわけだ。
(10月18日)

スポンサーリンク

訳注

※食前方丈なるも甘んずる所一肉の味に過ぎず:『列女傳』巻二 楚於陵妻より。

楚於陵子終之妻也。
楚王聞於陵子終賢,欲以為相,使使者持金百鎰,往聘迎之,於陵子終曰:「僕有箕帚之妾,請入與計之。」
即入,謂其妻曰:「楚王欲以我為相,遣使者持金來。今日為相,明日結駟連騎,食方丈於前,可乎?」妻曰:「夫子織屨以為食,非與物無治也。左琴右書,樂亦在其中矣。夫結駟連騎,所安不過容膝。食方丈於前,所甘不過一肉。今以容膝之安、一肉之味而懷楚國之憂,其可乎!亂世多害,妾恐先生之不保命也。」於是子終出謝使者而不許也。
遂相與逃,而為人灌園。君子謂於陵妻為有德行。詩云:「愔愔良人,秩秩德音。」此之謂也。
頌曰:於陵處楚,王使聘焉,入與妻謀,懼世亂煩,進往遇害,不若身安,左琴右書,為人灌園。

《文選樓叢書》本《新刊古列女傳》

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)