『貧乏物語』七の一 道具の発明に…

現代語訳

道具の発明によって、鳥やケモノのレベルから抜け出せた人間が、機械の発明された今日、なお貧苦困窮から抜け出せないのは、一応は不思議だ。しかしよく考えてみると、不思議でもなんでもなく、有力な機械はできたけれど、その機械の生産力が、今日では全くおさえられてしまって、充分にその力を働かせずにいるのだ。

物を造り出す力そのものは非常に増えているけれども、その力がおさえられて、充分に働きを現わさずにいるから、それでせっかく機械の発明された世の中でありながら、われわれ一般の者の日常の生活に必要な、いわゆる生活必需品の生産が、著しく不足しているわけだ。これをたとえるなら、立派なストーブを据え付けながら、炭を惜しんで行火(あんか)火程度に入れ、おおぜいの人がこれを囲んで、冬の寒さに震えているようなものだ。

この点については、次のように誤解している者がいる。今は機械が出来たから、われわれの生活に必要な品物はすでに、豊富に造り出されている。しかしその分配が悪いから、ある少数の人の手に余分に分捕られている。だから残りの多数の人々は、食うものも食わずに困っているのだ、と考えるわけだ。しかしそれは大きな間違いだ。

たとえば今日の日本にも、充分に食物を得ていない者はたくさんあろう。もちろんまずい物でもなんでも腹一杯詰め込んでいれば、本人は別にひもじいとは思っていないだろう。しかし医者の目から見て栄養不足に陥っている者は、少なからずいるだろう。ならばそれらの人々に行き渡るはずの、米の飯なり魚肉なり獣肉なりが、金持ちに全部奪い取られているかと言えばそうでない。

無論金持ちは金持ち相応に、ぜいたくな金のかかった食事をしているだろうが、しかしそうかといって、それらの金持ちが毎日一人で、百人前千人前の米や肉を食べているわけではない。あるいは冬の夜、寒さを防ぐに足るだけの夜具、衛生にさしつかえないだけの清潔なふとん、それをさえ充分に備えていない家族も少なくないと思うが、それならと金持ちの所へ行ってみると、これらの貧乏人に渡るはずの木綿の夜具が、ことごとく分捕って積み重ねてあるわけではない。

ならば今日社会の多数の人々が、充分に生活の必需品を得られず困っているのは、たくさんに品物はできているが、その分配が悪いのではなくて、実は初めから生活必需品は、充分に生産されていないのだ。

そういう大切な品物が充分に出来ていないのに、都会では至る所の店頭に、さまざまなぜいたく物や奢侈品(しゃしひん)が並べられている。なぜかといえば、実はそこに、今日の経済組織の根本的欠点がある。

そもそも今日の経済社会は、需要がある物に限ってそれを供給する、というのが原則だ。ここで需要というのは、単なる要求と同じではない。一定の要求に資力が伴って、始めてそれが需要となる。たとえば襤褸(ぼろ)をまとった乞食が、ひもじそうにしながら、宝石店の飾り窓をのぞき込んで、金指輪や金時計にあこがれても、それは単純な欲求で、購買力を伴った需要ではない。

これに対して、今日の経済組織の特徴は、金の払える欲求だけに目を付け、こうした需要がある物に限って、それを生産するという点にある。ではその需要が、今日の社会でどうなっているかといえば、生活必需品への需要よりも、ぜいたく品への需要のほうが、いつでもはるかに強大優勢だ。これが、多くの生活必需品がまずあと回しにされて、無用のぜいたく品だけが、どしどし生産されている理由だ。
(10月17日)

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訳注

河上先生は新聞読者を相手に書いている。経済学者であれば、必需品より奢侈品の生産が強いと言われて、じゃ統計を見せてみろ、というだろう。

だがGNPもGDPの概念もない大正時代、産品別生産高の統計が、とられていたかどうかは極めて怪しい。失業率の統計すら無かったことは判明している。ゆえに河上先生がこう言うのを、そのまま受け取るわけにはいかないが、何かしら先生に、そう思わせるものがあったのだろう。

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