現代語訳
私は先に機械のことを述べ、今日では機械の発明によって、仕事の種類によっては、我々の生産力が数千倍数万倍に増加したことを説いた。それなのに、その機械の利用が最も盛んな西洋の文明諸国で、すでにこの物語の冒頭に述べたように、貧乏人の数が非常に多いのは、いかにも不思議だ。
富んだ家には痩せ犬なし、とまで言うからには、経済のはるかに進んでいる文明諸国なら、金持ちに比べれば貧乏な人でも、そこそこの暮らしをしておかしくない。ところが肉体の健康を維持するお金さえない貧乏人が、非常に多い実情は、実に不思議千万である。
今私は、この不思議を解いて、なんとかして貧乏根治の方策を立てたいと思うのだが、すでに百年来有名なマルサスの『人口論』があるから、他の諸説はしばらくおくとしても、議論の順序として、まずこの人口論だけは片付けておかなければならない。
『人口論』の著者として有名なマルサスは、今〔1916年〕から150年前に英国で生まれた人だ。その著『人口論』の第1版は、今から約120年前、1798年に匿名で公刊された。氏の議論はその後、『人口論』の版が改まるに従って、少なからず変化しているから、簡単にその要領を述べることは不可能だ。しかしここは便宜上、初版に沿ってその議論の大意を述べる。
氏の意見によれば、色と食の2つは人間の2大情欲とある。つまり我々人間は、色欲でその子孫をふやし、食欲で生命を維持している。そして盛んに子を産み育てるには、どうしても食物が必要だ。しかしその食物の生産増加率は、人口の繁殖率に、とうてい及ばない。だから人間が、さまざまの罪悪や、貧乏のために難儀するのは、我々の力ではどうにもならない、人間生まれながらの宿命だというのである。
この人口論がもし真理なら、貧乏根治を志願の1つとして、この世に存命するこの物語の著者のごときは、書を焼き筆を折って、もうこの世は仕舞いじゃと引きこもるしかない。しかし幸いなことに私の観察は、マルサスとやや異なっている。
つまりマルサスの議論は、人間全体が貧乏しなければならないという仮説の説明にはなるが、同じ人間の中で、ある者は大きなテーブルいっぱいにごちそうを並べ、ある者は粗末な食事にも事欠くありさまについては、全く説明することができない。
ましてや最近の百余年間、機械の発明があちこちで行なわれ、そのすごいのに至っては、財貨生産の力を、実に数千倍数万倍に増加させている。だからどんなに人口の繁殖力が強くても、この機械による生産力の増加には、とうてい匹敵すべくもない。だから人口論が公刊された百数十年前ならともかく、20世紀の今日、生産力が繁殖力に及ばないから、貧乏するのだと言われても、全然当たっていないと言わなければならない。
ならば、なんでこんなに貧乏人がいるのか。それは次回でお話しさせて頂こう。
(10月16日)
訳注
マルサスが『人口論』を世に問うたのは1798年。当然、当時はトラクターもなく、ハーバー・ボッシュ法によって化学肥料が大量合成される1903年は、はるか先。河上先生はその威力をご存じだったろうが、日本の農業が当時、どこまでこうした科学の精華を利用できていたかは想像するしかない。帝国陸軍の機械化のお粗末さから、江戸時代とそう変わらなかったのではないか。
ただ前提として、マルサスの言うとおり食の増産は人口の増大に及ばないとしても、一時的にそうでなく見える時代がある。二次大戦後の日本がその一つで、米は自給できるし残りの食材は買ってこればよい、となる。
対して現代の先進諸国の、それもたかだかここ数十年の時代を除き、農業社会で暮らす人類は常に飢えていたし、子供の半分は子供の内に、つまるところ栄養不足で死んでいる。飢饉となれば、蓄えのある金持ち貴族を除けばばたばた死んだ。無い食物は、無いから。
河上先生の時代は、科学力が自然環境に勝てると見え始めたあけぼので、飢餓線上にあった日本の農村にも、そろそろ光が射してよさそうなものだ、と知識人である先生は言っているように感じられる。