現代語訳
人間が、ほかの動物と比較できないほどの経済的発達を遂げた根本原因が、果たして私の言うように、道具の発明にあるなら、近代にその道具が、さらに一段と発展して機械になったことは、実に経済史上の一大事件といわねばならない。その機械の力の驚くべき事は、今さら私が説明するまでもないことだ。
例えば尋常小学読本・巻の十一を見るとこうある。
「昔の糸車で紡ぐなら、1本の紡錘に1人が付いていなければならないが、今はわずかに6、7人の工女が、2千本の紡錘を扱える。加えて蝋燭(ろうそく)の心にする太い糸、クモの糸のような細い糸、どちらも思いのままで、手紡ぎのように不ぞろいにならない。機械の力は驚くべきものではないか」
その上、今日西洋で最も進歩した機械なら、1人の職工で1万2千錘を運転できるという。この紡績の一例だけとっても、機械の発明が、我々の生産力を一躍千倍万倍に増進したわけだ。
機械の効果が偉大なこと、まさにこの通り。考えてみれば我々は、その昔道具の発明によって、初めてトリやケモノのたぐいから脱することができたように、今や機械の発明によって、旧時代の人類が、全く夢想もできなかった、驚くべき物質的文明をまさに実現しようとしている。そして私は、この新文明のたまものの一つとして、貧乏人が全くいない新社会の実現を、毎日乞い願っている。
私は遠くさかのぼって、人類進化史上での道具の意義を考え、転じて近代での機械の偉大な効果を思うたびに、今の時代が、まことに未曾有の、受難の時代だと思わずにはいられない。だから一昨昨年(1913)の末、初めてロンドンに着き、取りあえず有名なウェストミンスター大聖堂※1を訪問して、はからずもジェームス・ワットの大理石像を仰ぎ見た時なども、私は実に言いようのない感慨にふけったものだ。
仰ぎ見れば、彼ワットはガウンを着て椅子に腰を掛け、大きな靴をはいて、左の足を後ろに引き、右の足を前に出し、紙をひざにのべ、左手にその端をおさえ、右手にはコンパスを握っている。そうして台石の表面には、次のような文字が彫り付けてある。
「この国の国王、諸大臣、ならびに貴族平民の多くの者が、この記念像をジェームス・ワットのために建てた。それは彼の名を永遠に伝えるためではない、彼の名は平和の事業として栄える限り、このような記念像がなくても、必ず永遠に伝わるだろう。むしろこの像は人間が……彼らの最上の感謝に値する人々を、尊敬することをわきまえているという証拠を示すためにのみ、ただ建てられたものである。」※2
彼ワットとは言うまでもなく、蒸気機関の発明者だ。この蒸気機関の発明者こそ、機械時代の先駆者の一人だから、彼の名は実に人間が滅びない限り、永遠に伝わることだろう。
ウェストミンスター大聖堂には、ダーウィンがいる、ニュートンがいる、シェークスピアがいる、そうしてまたこのワットがいる。大聖堂のすぐ前は、ロンドンで最もにぎやかな場所の一つである、トラファルガー・スクウェアで、そこには空にそびえる高い高い柱の頂上に、ネルソン提督※3が突き立っている。昔トラファルガーの海戦で、スペイン、フランスの連合艦隊を、一挙にしてほとんど全滅させ、自分もその場で戦いに倒れた、英国海軍の軍神ネルソン卿(きょう)の銅像が、灰色の空に突き立って、下界を見おろしている。
そのネルソン卿の見おろしている下の広場は、自動車や人間の往来に目もくらむばかりで、道一ツ横切るにも、私たちのようないなか者は、いつもひやひやしたものだ。カフェーに入ると、地下室になっている。そこへ腰を掛けて茶を飲んでいると、天井の明かり取りのガラス板の上を、大勢の人が、靴を踏み鳴らしながら通る。その騒々しさには、我々の神経もすり減らされるような気持ちだ。
しかし戸を一つあけて大聖堂の内にはいると、たとえば浅草の公園でパノラマ館にはいったよう、空気はたちまち一変して、外の騒々しさはすべて拭いたように消されてしまって、大聖堂の内は靴音さえ慎まれるほどの静けさだ。私はそういう空気の中で、彼ワットの像を仰ぎ見ながら、ものを思いながらうろうろと、静かにさまざまの感想にふけったが、今またこの物語を書いて機械のことに及んだので、思いがけず当時を追憶して、ここに無用のひま話に、貴重な一日の紙面をふさぐに至った次第である。
(10月15日)
訳注
※1)ウェストミンスター大聖堂:現在はセント・ポール大聖堂にワット像が移設された、とwikiにある。
※2)碑文の拡大とwikiによる訳は次の通り。
この碑は 彼の名を永久に刻むためのものではない
その名は かの平和な技術が伝えられる中でおのずと残るであろう
この碑は ただ示すためにある
人類は 感謝を捧げるべき人を讃えることを知っている と
王と
王に仕える者と 多くの貴族と
王国国民は
この記念碑を捧げる
ジェームス・ワットへ
類まれなる才能を傾け
蒸気機関の
改良のため
哲学研究の先駆けとなる
母国の資源拡張に貢献
人類の力を高め
より高い段階へと導いた
もっとも輝かしい科学の徒にして
世界の恩人
1736年 グリーノックに生まれ
1819年 スタットフォードシャー ヒースフィールドに没す
※3)ネルソン提督:原文「ネルソン将軍」。明治以降、陸将を将軍、海将を提督と呼ぶのが一般的。しかしそれを河上先生が知らないはずはないから、将官全体を将軍と呼称する例があったのかも知れない。
なお原文には、今回の画像はいずれも収録されていない。トラファルガー・スクウェアの画像は、2011年3月、訳者が撮影したもの。近寄ってみると目がくらむほど高く、巨大。