現代語訳
加藤内閣ができるはずと聞いていたのが、急に寺内内閣が成立しそうだ※1という話なので、ふだん当面の時事には無関心のこの物語の筆者も、ちょっとだまされたような気持ちがする。しかしそれはそれとして、私はこの物語の本筋をたどるだろう。
さて私が前回に葉切り蟻の話をしたのは、昆虫にもなかなか経済の発達した者がいる、という事を示すためだった。わずかに一例を挙げただけだが、ただこの一例だけを見ても、もし我々が太古野蛮の時代にさかのぼってみるか、あるいは今日でも未開地方に住む野蛮人の状態について見るなら、ある方面ではかえって人間の方が、蟻などよりもだいぶ劣っていると思われる事情がある。
それにもかかわらず、今日我々人間の経済が次第に発達を遂げ、ついに今日のような盛況に至ったのは、実はその根底、その出発点に、ある有名な特徴があるためだ。今その特徴を何だと問えば、それは道具の製造である。この事はかつて本紙に連載した「日本民族の血と手」と題する拙稿(大正4年発行拙著『祖国を顧みて』に収める)の一部で、すでに言及した。
私は学校の講義のように、今年もまた同じ事をここに繰り返したくはないけれども、この一論はどうにもこうにも、私の経済論の体系の一部を成しているから、これに触れずして論を進める事はすこぶる困難だと思うので、しばらく読者のお許しを願って、再び同一の論を繰り返す。ただし、なるべく化粧を凝らして、人目につかぬよう、そっとこの坂道を通り越すことにしよう。
そこで話を遠い遠い昔の、今より推算すれば約50万年前のいにしえに戻す。そのころジャワに、猿に似た1人の人間――私はかりに人間と名づけておく――が住んでいた。無論1人で住んでいたわけではなく、仲間もたくさんいたことだろうが、ただ1人だけのことしか、今日ではわからない。
もっともその1人についても、その人が果たしてどんな暮らしをしたか、どんな事を考えていたか、女房がいたか、子供がいたか、そんな事は少しもわかっていない。ただそういう1人の人がいたということだけは、確かにわかっている。それは今から20余年前、1891年にオランダの軍医デュブアという人が、中央ジャワのベンガワン川に沿って化石の採集をしていた時のことだ。
トリニルという所の付近で、たくさんの哺乳動物の遺骨の中から、1本の奥歯を発見した。それがすなわち、今言う50万年前の人間が遺して死んだ、臼歯の一きれである。そこでデュブア氏は、なお丁寧に土を掘ってゆくと、先に奥歯が発見された所から、約1mばかり隔てた場所で、頭蓋骨の頂部を発見した。それからさらに引き続き発掘をしていたら、今度は頭蓋骨の発見された所から15mあまり隔てた場所で、左の大腿骨と臼歯をもう1本だけ発見した。
くわしいことは私の専門外だから略しておくが、これが今日人間と言えば言える者の、 一番古い遺骨で、学問上ではこの人間を名づけて、ピテカントロプス(猿の人)といっているそうだ。しかしこれが果たして、今日の人間の直系の祖先に当たるか否かについては議論があるが、ともかく大腿骨が出たので、その構造から考えてみて、この猿の人は直立していたとわかるし、また頭蓋骨の一部が出たので、その脳も、相当に発達していたとわかる。
元来我々人間が、道具を造り出すに至ったのは、我々が直立して2本の足で、楽に体を支えるようになってからだ。すでに体がまっすぐになると、それに伴って2本の手が浮いてきて、全く自由になると同時に、頭がからだの中心に位置して、初めて脳が充分な発達を遂げうるのだ。
けもののように四つ足を突いて首を前に出していては、到底重い脳みそを、頭の中に入れていられるものではない。オランウータン、ピテカントロプス、後述のエオアントロプス※2、現生人類と、だんだん姿勢が直立してくるに従って、脳も次第に大きくなるありさまは、ここに挿入した図によって、その概要がわかるだろう。

脳髄の大きさの比較
そこでその発達した脳で自由な手を使うことになったから、初めて人間特有の道具の製造が始まるのだが、今このピテカントロプスがはたして、道具を造っていたか否かに至っては、別に確かな証拠はない。たぶん木か石でできた、きわめて幼稚な道具を使っていただろうというのが、オスボーン氏の説である*。
* H. F. Osborn. Men of the Old Stone Age, 1916. pp. 82, 83, 86.
(10月13日)
訳注
※1)寺内内閣が成立しそうだ:この記事が大阪朝日新聞に掲載されたのは、1916(大正5)年10月13日。同月9日に寺内内閣が成立している。直前の第二次大隈内閣は、一次大戦への参戦を決めた内閣で、対華二十一ヶ条要求で今日悪名高い。
対して当時、大隈についてもっと悪名高かったのは、前年(1915)3月25日の衆議院総選挙の際、大々的に選挙干渉を行ったことで、それをうながしたのは山県有朋である。議院内閣制の現在と異なり帝国憲法下では、首相は必ずしも衆院第一党の党首である必要はなかったから、二個師団の増設を通したい山県が、子分の大浦兼武内相にやらせた、とされている。
しかし発覚すれば批判を浴びるのは当然で、閣内からも辞任勧告が出て、この年(1916)7月末に大隈は内閣を投げ出そうとした。これは山県をはじめとする元老に押さえられて一旦は取りやめとなったが、結局は総辞職することになる。
大隈は外相の加藤高明を後継に推したが、山県は子飼いの寺内を推薦。大正天皇の裁定で、寺内が首相に決まった。選挙干渉に始まり、やめるやめない、加藤か寺内か、この一連のどたばた騒ぎが、原文の「ちょっとだまされたような気持ちがする」に反映されていると思われる。
加えてこの第二次大隈内閣が、シーメンス事件から鰻香(まんこう)内閣騒動を経て成立しただけに、政治に対する知識人の失望・失笑が、河上先生があえて本編に関係ない一節を挿入した動機とも想像できる。この時代は、誰が首相を決めるのかについての過渡期であり、相変わらず元老の意向で政権が左右されることに、河上先生は失望したに違いない。
ただし加藤高明も外務官僚出身と言うだけで、民意を反映した首相候補とは言えず、いずれにせよ1925(大正14)年の普通選挙法まで、元老と、民意を反映すると称する護憲派の綱引きは続いた。それを成立させた加藤が首相に就任するのは、1924年のことになる。
余談ながら鰻香内閣騒動が、せっかく山本権兵衛が開いた軍部大臣現役武官制の緩和を有名無実化し、後年の軍国主義の跳梁跋扈を許したことは記憶に値する。また清浦奎吾と共に首相候補として推された徳川家達(いえさと)はいわゆる両刀遣いで、華族会館のボーイを強姦して訴えられるなど、「恥知らず」と身内からも非難されるような人物であった(佐野眞一『枢密院議長の日記』)。
※2)エオアントロプス:ピルトダウン人。近代科学史上で最大のいかさまとして知られる、捏造された化石人類(wiki)。詳細はリンク先を参照。
「くわしいことは私の専門外だから」と河上先生が書いているとおり、知性のある人でも専門外のことはわからない、という例証と訳者は思う。
孔子は、わからないことはわからない、そう正直に言いなさい、と弟子を教えた。同時にそれが、河上先生の良心だと思うし、「孔子を敬って論じる」と述べた冒頭の決心が、偽りでないことの証拠でもあろう。