現代語訳
故石川啄木氏※1は
はたらけど
はたらけどなおわがくらし楽にならざり
じっと手を見る
と歌ったが、今日の文明国にこのような一生を終わる者がいかに多いかは、以上数回にわたって私が略述した通りだ。今私は、この貧乏の問題を、20世紀社会の大病だと信じる。そしてどうしてそう言えるかを論証するのが、以下さらに数回にわたるだろう、私の仕事である。
貧乏が不幸せだという事は、ほとんど説明の必要もないと考えられるが、不思議にも古来学者の間には、貧乏人も金持ちも、その幸福にはさして違いが無いという説が行なわれている。大多数の諸君が知っているように、アダム・スミスは近世経済学の開祖と讃えられる人だが、氏が今より150余年前(1759年)に公にした『道徳感情論』を見ると、氏は次のように述べている。
「……肉体の安易と精神の平和という点では、種々の階級の人々がほとんど同じ水準にあるものだ。たとえば大道のそばでひなたぼっこをしている乞食の安心は、もろもろの王様が求めても、決して得られないものだ*」
* Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, 6th ed., 1790. p. 311.
現在、嵯峨にお住まいの間宮英宗師※2は、禅僧に珍しく口達者の人だが、その講話集の中に、次のような話が載せてある。上のアダム・スミスの解説と見なしうるから、これをそのまま借用する。
「昔、五条の大橋の下に、親子暮らしの乞食が住んでいました。もとは相応地位もあり、財産もあった立派な身分の者でしたが、おやじが放蕩無頼に身を持ちくずしたため、とうとう乞食と成り果てて、住む家もなく、五条の橋の下でもらい集めた飯の残りや大根のしっぽを食べて、親子の者が暮らしていました。
ところがちょうどある年の大みそかの事、その橋の上を一人の立派なお侍が通りかかった。するとそこへまた向こうの方から、一人の番頭ふうの男がやってきまして、出会いがしらに『イヤこれは旦那よい所でお目にかかりました』と言う。
そのお侍は、何がよい所だ、とんだ所で出くわしたものだ、と心の内では思いながらも、しかたなく橋の欄干に両手をついて、『番頭殿、実にもって申しわけがない、今日という今日こそはと思っていたのだけれども、つい意外な失敗からあてが狂って、はなはだ済まぬけれども、もう一ケ月ばかりぜひ待ってほしい』と言う。
番頭はうるさいとばかりに、『イヤそのお言いわけはたびたび承ってござる、いつもいつも勝手な御弁解も、はや今年で5年にも相成りまする、今日という今日はぜひ御勘定を願わなければ、そもそも手前の店が立ち行きませぬ』と、威丈高になって迫ります。
すると、『イヤお前の言うところは全く無理ではないが、しかし武士ともあろうものが、このとおり両手を突いてひらにあやまっているではないか、済まぬわけだが、今しばらく猶予してもらいたい』と、しきりにわびを入れる。
これを橋の下で聞いていた乞食のせがれが思った。さてさて、お侍だなんて平生大道狭しと威張っていやがるくせに、商人ふぜいの者に両手をついてまで謝るとは、なんとした情けない話だろう、いくら偉そうに威張っていたところで、借金取りに責められては、あんなつらい思いもしなければならない。
だとすればつまらない、それを思うとわれわれの境遇は実に結構なものだ。借金取りがやって来るでなし、泥棒の入る心配もない。風が吹こうが雨が降ろうが、屋根が漏れる心配も壁がこわれる心配もない、飢えては一椀の麦飯に舌鼓をうち、渇しては一杯の泥水にも甘露の思いをする、いわゆる
一鉢(いっぱつ)千家の飯、孤身幾秋をか送る
冬は温(あたた)かなり路傍の草、夏は涼し橋下の流れ
色(しき)に非ず又空(くう)に非ず、楽無く復(ま)た憂(うれい)無し
若(も)し人此の六に問わば、明月水中に浮かぶ※3
(たった1つの乞食じゃわんで、あちこちの家を巡って物もらい、たった一人でどれだけ年を過ごしただろう
道ばたの草も冬には暖かい、橋の下で過ごすも夏は涼しい
欲にボケてもいないが、悟ってもいない。楽もなければ悲しみもない
お前どうするのだ、と人に言われたら、川面に映るお月様のように浮かぶまでさ)
で、思えば自分らほど、のんきな結構なものは世間にない、とひとり言を言って妙に達観していると、せがれのそばで半ば居眠りをしていた親乞食が、せがれが言うのを聞いて、むっくと起き直った。『これせがれ、そんな果報な安楽の身に、いったいお前はだれにしてもろうたのか、親様の御恩を忘れてはならんぞ』と言うたというお話がござります」
「はたらけどはたらけどなおわがくらし楽にならざり、じっと手を見る」という連中が、この講話を聞いて、はたして自分らほど果報な者は世にないと思うだろうか。たとえ彼ら自身はそう思うにしても、われわれは、はたして彼らを見て、世に果報な人々とすべきだろうか。それが私の問題とするところである。
(9月19日)
訳注
※1)石川啄木:啄木が世を去ったのは、連載の4年前に当たる1912年。
以下、wikiより一部を、要約して引用する。
1909年『東京朝日新聞』の校正係となる。4月3日よりローマ字で日記を記すようになる。記述全文が翻字され公刊されたのは、啄木死後70年近くを経た1970年代の全集出版時からである。それまで一部が伏せられていたのは、浅草に通い娼妓と遊んだ件が赤裸々に描写されていたためである。「彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困だった」と、金田一春彦は語っている(ちなみに京助〔=春彦の父〕は啄木のために家財を売って用立てていたため、当時の春彦はその様子をみて幼心に「石川啄木は〔有名な大泥棒である〕石川五右衛門の子孫ではないか」と疑ったことがあったという)。
原文で河上先生が引用した『生財弁』にある、「かせぐ事を嫌い、ただ銭を使いたいというなら、それは好きこのんで貧乏しているのだ」が想起される。
芥川や藤村など、大正から昭和の初めにかけての、いわゆる文人に、こうした癖があることは様々な例で見ることが出来る。「不良文士」という言葉と併せて、当時の文化人とは何かを知る、一つの手がかりになると訳者は思う。
確か角川文庫の巻末に、敗戦は国の敗北であると同時に、文化人の敗北だ、なぜなら戦争を防げなかったから、というような悲痛な叫びが載せられていたと思う。このような文化人が、何を言ったりやったりしたところで、説得力が無く戦争など防げそうにない。
※2)間宮英宗師:まみや・えいじゅう、明治4年(1871)~ 昭和20年(1945)、愛知県生まれ。大正7年、奥山方廣寺派管長に就任。山口玄洞氏の寄進によって設立された 京都の仏教会館と方廣寺を拠点に、日本国内及び台湾・朝鮮・中国東北・南洋で布教。昭和2年(1927)、 方廣寺を辞し、京都に栖賢寺を再興して退任後も布教に従事し、巡教途上の上海で病死。 著書に「碧巌録講話」、「臨済録夜話」、「禅道俗話」等(方廣寺HPより改)。
※3)一鉢千家の飯:出典未詳。中里介山『大菩薩峠』「山科の巻」に同じ詩が引用されている。青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/cards/000283/files/4345_15615.html)で原文を見ることができる。作中の「六」というのは、この詩を作った乞食坊主の名前という。
「山科の巻」が新聞連載されたのは、1935年前半と思われるため、この『貧乏物語』よりずいぶん後になる。従って出典未詳とした。なお同じ句で始まる詩に、良寛の作があるという。