現代語訳
私はすでに前回の末尾において、富者はその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと言ったが、かく言うことにおいて、私の話はすでに消費者責任論より生産者責任論に移ったわけである。
私はかつて、需要は本(もと)で生産は末であるから、われわれがもし需要さえ中止したならば、ぜいたく品の生産はこれに伴うて自然に中止せられ、その結果必然的に生活必要品の供給は豊かになり、貧乏も始めて世の中から跡を絶つに至るであろうと述べた。それゆえ私は消費者――ことに富者――に向かってぜいたくの廃止を説いたのであった。しかしさらに考えてみるといかに需要はあっても、もし生産者においていっさいのぜいたく品を作り出さぬという覚悟を立つるならば、それでも目的は達し得らるべきはずである。
世間にはいくらでも需要のある品物で、それを作って売り出せば、たやすく一掴(いっかく)千金の金もうけができるにもかかわらず、いやしくもその品物が天下の人々のためにならぬ性質のものたる以上、世の実業家は捨ててこれを顧みぬという事であれば、私の言うがごとき現代経済組織の弊所もこれがため匡正(きょうせい)せらるること少なからざるべしと思う。それゆえ私は論を移して、消費者責任論より生産者責任論に進むのである。
私は今具体的に商品や商売の名を指摘して、多少にても他人の営業の邪魔をする危険を避けるつもりであるが、ただ一つ、今年の夏四国に遊んだおり、友人から聞いた次の話だけ、わずかにここに挿入(そうにゅう)することを許されたいものだと思う。
このごろ婦女子の間に化粧品の需要せらるることはたいしたもので、これを数十年前に比ぶれば実に今昔の感に堪えざる次第であるが、ある日のこと、自分は所用あって田舎町(いなかまち)の雑貨店に立ち寄っていると、一人の百姓娘が美顔用の化粧品を買いに来た。見ていると、小僧はだんだんに高い品物を持ち出して来て、なかんずく値の最も高いのを指さしながら、これは舶来品だから無論いちばんよくききますなどとしゃべっていたが、その田舎娘はとうとういちばん高い化粧品を買って帰った。いわゆる夏日は流汗し冬日は亀手(きしゅ)する底(てい)の百姓の娘が美顔料など買って行く愚かさもさることながら、私はかかる貧乏人の無知なる女を相手に高価なぜいたく品を売り付けて金もうけすることも、ずいぶん罪の深い仕事だと感じた。
友人の話というはただこれだけの事である。そうして私はこれ以上具体的の話をするつもりはないが、ただひそかに考うるに、いかに営業の自由を原則とする今の世の中とはいえ、農工商いずれの産業に従事するものたるを問わず、すべて生産者にはおのずから一定の責任があるべきはずだと思う。
私は金もうけのために事業を経営するのを決して悪い事だと言うのではない。多くの事業はいかなる人がいかなる主義で経営しても、少なくとも収支の計算を保って行く必要がある。損をしながら事業を継続するという事は、永続するものではない。それゆえ私は決して金もうけが悪いとは言わぬ。ただ金もうけにさえなればなんでもするという事は、実業家たる責任を解せざるものだ、と批評するだけの事である。少なくとも自分が金もうけのためにしている仕事は、真実世間の人々の利益になっているという確信、それだけの確信をば、すべての実業家に持っていてもらいたいものだというのである。
思うにすべての実業家が、真実かくのごとき標準の下にその事業を選択し、かくのごとき方針の下にその事業を経営し行くならば、たとい経済組織は今日のままであっても、すべての事業は私人の営業の名の下に国家の官業たる実を備え、事業に従う者も名は商人と言い実業家と言うも、実は社会の公僕、国家の官吏であって、得るところの利潤はすなわち賞与であり俸給(ほうきゅう)である。かの経済組織改造論者はすべて今日私人の営業に属しつつあるものをことごとく国家の官業となし、すべての人をことごとく国家の官吏にしようというのであるが、個人の心がけさえ変わって来るならば、たとい経済組織は今日のままであっても、組織を改造したるとほとんど同じ結果が得らるるのである。
他人との競争について考えても同じことである。私は決して競争を否認するものではない。もし自分の売り出している品物の方が、同業者のよりも実際安くてよい品物であり、また自分の方が他人よりもそのもうけた金をば真実社会のため、事業そのものの発達のため、より有効に使用しうるという確信があるならば、いくら他人を押しのけ自分の販路を拡張したとて毫(ごう)もさしつかえはない。日々新聞紙に一面大の広告をして世間の耳目をひくもよかろうし、それがため他人の金もうけの邪魔をする事になっても、それはいたしかたのない事である。またたくさんの金をためているということも決して悪い事ではない。これは天下の宝である、みだりに他人の手に渡す時は必ずむだな事に使ってしまうから、自分が天下のために万人に代わってその財産を管理しているという信念の下に、金をためているのならば、少しもさしつかえないことだと思う。その代わりかかる信念を有する人々は、いくら金をもうけ、いくら財産をこしらえても、これを一身一家の奢侈(しゃし)ぜいたくには使わないはずである。思うにかくのごとくにして始めていっさいの社会問題は円満に解決され、また始めて実業と倫理との調和があり、経済と道徳との一致があり、われわれもこれによりてようやく二重生活の矛盾より脱することを得、銖錙(しゅし)の利を争いながらよく天地の化育を賛(たす)けつつありとの自信を有しうるに至るのである。よってひそかに思う、百四十年前自己利益(セルフ・インタレスト)是認の教義をもって創設され、一たび倫理学の領域外に脱出せしわが経済学は、今やまさにかくのごとくにして自己犠牲(セルフ・サクリファイス)の精神を高調することにより、その全体をささげて再び倫理学の王土内に帰入すべき時なることを。もしそれ利己といい利他というもひっきょうは一のみ。今曲げてしばらく世間の通義に従う。高見の士、請うこれを怪しむことなかれ。
(12月23日)
訳注
実は今回から先は訳していない。青空文庫のまま。理由は後述する。