『貧乏物語』十三の二(未訳)

現代語訳

頭脳の鋭敏なる読者は、私が貧乏退治の第一策として富者の奢侈(しゃし)廃止を掲げおきながら、その第一策を論ずる中に、私の話は一たびは富者を去って一般人のぜいたくに説き至り、さらに消費者責任論より生産者責任論に移りしを見て、ことに私の脱線を怪しまれたであろう。しかしこれはただ論を全うするためで、私の重きを置くところは飽くまで、富者の奢侈廃止である。

すなわちこれを生産者の責任について論ぜんか、すでに述べしがごとく、需要と生産との間にはもとより因果の相互関係ありといえども、しかもそのいずれが根本なりやと言わば、需要はすなわち本(もと)で、生産はひっきょう末である。されば社会問題の解決についても、消費者の責任が根本で、生産者の責任はやはり末葉たるを免れぬ。何ゆえというに、極端に論ずれば、元来物そのものにぜいたく品と必要品との区別があるのではなくて、いかなる物にてもその用法いかんによって、あるいは必要品ともなりあるいはぜいたく品ともなるからである。

たとえば米のごときは普通には必要品とされているけれども、これを酒にかもして杯盤狼藉(ろうぜき)の間に流してしまえば、畳をよごすだけのものである。世の中に貧乏人の多いのは生活必要品の生産が足りぬためだという私の説を駁(ばく)して、貴様はそういうけれども、日本では毎年何千万石の米ができているではないかと論ぜらるるかたもあろうが、実はそれらの米がことごとく生活の必要を満たすために使用されているのではない。徳川光圀(とくがわみつくに)卿(きょう)の惜しまれた紙、蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)の廊下に落ちあるを見て両手に取っていただかれたという紙、その紙が必要品たるに論はないけれども、いかなる必要品でも使いようによっては限りなくむだにされうるものである。たとえばまたかの自動車のごときは、多くの人がこれをぜいたく物というけれども、しかし医者が急病人を見舞うためなどに使えば、無論立派な必要品になる。

かくのごとくすべての物がその使用法のいかんによって必要品ともなればぜいたく物ともなりうるものであるから、いくら生産者の方で必要品を作り出すように努めたからといって、消費者が飽くまでも無責任に濫用(らんよう)すれば、到底いたしかたのない事になる。それゆえ、私は生産者の責任よりも消費者の責任を高調し、一般消費者の責任よりも特に富者の責任を力説したのである。しかし富者も貧者も消費者も生産者も、互いに相まっておのおのその責任を全うするに至らなければ、完全に理想的なる経済状態を実現するを得ざること言うまでもなきことである。

×       ×       ×

私が貧乏退治の第一策というは以上のごときものである。思うにもしここまで読み続けられた読者があるならば、中には実につまらぬ夢のごときことを言うやつじゃと失望されたかたもあろうが、私は自叙伝の作者たるゼー・エス・ミルになろうて、それらの読者には、ひっきょうこの物語は自分らのために書かれたものではないのだと思って勘弁してください、と申すよりほかにしかたがない。しかも万一前後の所論につきこの物語の著者と多少感を同じゅうせらるる読者があるならば、それらの読者を相手に私は今少し述べたいことがある。

私は先に消費者としてまた生産者としての各個人の責任を述べ、ひいて経済と道徳との一致を説いたが、これにつけて思い出さるるは、中庸の「道は須臾(しゅゆ)も離る可(べ)からず、離る可きは道に非(あら)ざる也(なり)」の一句である。思うに世の実業界に活動するもの往々道徳をもって別世界の事となし、まれにこれを口にするも、わずかに功利の見地より信用の重んずべきを説くの類に過ぎずといえども、もし余の説くところにして幸いに大過なからんか、朝(あした)より夕(ゆうべ)に至るまで、※屎(あし)[#「尸+阿」、156-11]送尿(そうにょう)著衣(ちゃくい)喫飯(きっぱん)、生産消費いっさいの経済的活動を通じて、すべてこれ道ならざるはなく、経済の中に道徳あり、経済すなわち道徳にして、はたして道は須臾も離るべからず、離るべきは道にあらざることを知るに足る。余大学の業をおえ、もっぱら経済の学に志してより今に至って十有四年、ようやく近ごろ酔眼朦朧(もうろう)として始めて這個(しゃこ)の消息を瞥見(べっけん)し得たるに似るがゆえに、すなわちこの物語に筆を執りいささか所懐の一端を伸ぶ。しかりといえども、この編もし過(あやま)りて専門学者の眼(まなこ)に触るることあらば、おそらく荒唐無稽(こうとうむけい)のそしりを免れざらんか。
(12月25日)

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訳注

この回は訳していない。理由は後述。

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