『貧乏物語』十二の七 誰でも長生き…

現代語訳

誰でも長生きしたいから、肥えれば喜び痩せれば悲しむが、前回証明したように、実は太り過ぎより痩せている方がはるかに安全だ。財産もまた同じ。貧乏の度が過ぎればもちろん喜べないが、金の持ちようも度が過ぎると、大変に呪うべきことだ。

この肥えた痩せたの話を、体に限ればその差もおおよそ知れたものだが、貧富の差になると、すでに上編に述べたように、今日は実に驚くべき格差を示しているから、経済学者という医者の目から見ると、貧の極みにいる人も、富の極みにいる人も、いずれも瀕死の大病人なのだ。

例えるなら今日の貧乏人は、骨と皮になって、血液もほとんど枯れ果てた病人のようなもので、しかもそういう病人の数が非常に多いわけだ。ところがもう一方の金持ちは、太って太って座れもせず歩けもせず、顔を見れば肉が持ち上がって目も口もつぶれてしまい、心臓も脂肪に押し潰されて、ほとんど鼓動を止めているような病状にある。貧乏人に比べたらその数は非常に少ないが、しかしこれもなかなかの重病患者と言わねばならない。

人は水にかわいても死ぬが、おぼれても死ぬ。この点今や天下の人の大多数は水にかわいて死んで行くのに、一方では水におぼれて死ぬ者もいる。だから私はここに回を重ねて、金持ちに向かってしきりにぜいたく廃止論を説く。ぜいたくの制止、これこそが世の金持ちが水におぼれる富豪病から免れる、唯一の道だからだ。

貧乏人は割合に気楽だ。衣食が足りなくて自分の身心を損なうことはあっても、そのせいで大勢の他人に迷惑を及ぼす事はまれだからだ。しかし金持ちがぜいたくすれば、単に自分の身心を損なうだけでなく、世間多数の人々の生活資料を奪うのだから、その責任は重大だ。

言い換えると自分が水におぼれて死ぬだけでなく、自分が水におぼれて死ぬことで、天下の人を日射病にかからせるのだから、その責任は実に重大だ。古人も「飲食は命を保って飢えや渇きをいやす薬と思え」と言っておられる。その薬が無いばかりに命を失うものが多い世に、薬の飲み過ぎで死んでは申し訳ないことだ。

一夜の宴会に千金を投じ万金を捨てるばか者どもの話は、そりゃあすごいねとうわさにはなろうが、結局は何一つ世の中のためにはならず、やがては自分の身を滅ぼすもとになるだけだ。

考えてみれば、世の富豪は辞令もなしに、官職に任じられているようなものだ。私はすでに中編で、今日社会の生産力を支配しているのはひとえに需要だと説いた。ところがその需要や購買力を、最も大きく持つのは富豪だから、とどのつまり社会の生産力を支配し指導する全権は、ほとんど彼らの手にゆだねられているわけだ。

もちろん貧乏人も、おのおの多少ずつの購買力は持っているが、それはきわめて微弱で、たとえば衆議院議員の選挙権と変わらない。これに比べて富豪の購買力は、議会の多勢を制して内閣を組織する諸大臣の権力のようなもので、加えてその財産を子孫に伝えるのは、あたかも天下の要職を世襲しているのと変わらない。

昔から、地獄の沙汰も金次第という。今この恐るべき金権を世襲しながら、これを一身一家の私欲のために濫用するなら、まさに天の期待にそむく愚行だから、たとえ自分にバチが当たらなくても、必ず子孫に報いが来るだろう。だから金持ちたる者、どうすれば天下のためその富を最善に活用できるか、日夜苦心しなければならぬはずだ。

だから金持ちは、ぜいたくをやめるのはもちろんのこと、さらに一歩進んで、その財で社会貢献する覚悟がなくてはならないと思う。
(12月22日)

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訳注

※今回のタイトル、青空文庫版には前回と同じく「十二の六」とあるが、国会図書館版を参照した上で「十二の七」に改めた。

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