『貧乏物語』十二の三 さてここまで…

現代語訳

さてここまで論じてきたなら、私はぜいたくと必要との区別を、誤解のないようにしておかなければならない。何をぜいたくというか、今までの通説もあるが、私には賛成しかねるところがある。それによれば、ぜいたくとそうでないのとの区別は、単に各個人の所得の大小を基準にしていた。

例えば巨万の富を持つ者が、一晩の宴会に数百円〔数十万円〕を使うのは、その人の財産や地位にふさわしいから、その人たちにとっては決してぜいたくとは言われない。しかし百姓が米の飯を食ったり魚を食ったりするのは、その収入と比べて過分の出費だから、その人たちにとっては確かにぜいたくだ、こういうふうに説明してきた。

しかし私がここに必要と言い、ぜいたくと言うのは、このように個人の所得や財産を基準にしない。私はその事が、人間としての理想的生活を営むため必要かどうか、それだけを見て、必要とぜいたくを区別したい。

ただし何が人間としての理想的生活なのかについては、人によって違うだろう。私は経済学者で、何が理想の生活かは専門外だ。だから個人的意見を読者に押し付けるつもりは毛頭ない。けれども議論を進めるために、少しだけ私の愚考を聞いてもらいたい。

人間としての理想的生活とは、まず自分の肉体的、知能的、道徳的、三つの生活の向上発展を計ることだ。言い換えると、自分で肉体と知能と精神の健康を維持し、その発育を助けられるような生活だ。それに加えて、他の人々の三つをも向上発展させられるなら、それこそ人間としての理想的生活だ。

この話を教育勅語のことばを拝借して言うと、肉体の健康を維持し、「知能を啓発し、徳器を成就し」、さらに「公益を弘め、世務を開く」ための生活、それがすなわちわれわれの理想的生活というものだ。

ここで私は誤解を避けるために、一応肉体と知能と精神とを列挙したが、もともと肉体は知的精神のためにあり、知性もしょせんは道徳のためにあるに過ぎない。だから人間生活上の一切の営みは、詰まるところ道徳的生活の向上が目的だ。

これを儒教的に言うなら、本来備えた道徳を輝かし、他人と親しみ良き人となることだ。禅宗的に言うなら、自分を見つめて仏になることだ。真宗的に言うなら、自分を仏に任せ切ることだ。キリスト教的に言うなら、神とともに生きることだ。これら以外に、人生の目的はないだろう。

この目的に向かって努力精進する生活、それがすなわち理想的生活だから、その目的のために役立つ一切の消費は必要経費だ。逆にその目的に直接にも間接にも何も役立たない消費は、全てぜいたくだ。

私の言う必要とぜいたくの違いはこのような意味だ。だから個人の財産や所得とは全く関係がない。今の世の中を見ると、この意味での必要経費をまかなうだけの財産や所得がない人がたくさんいる。

たとえば非常な秀才でもう少し学問させたら、のちには立派に国家に役立つ人材になりうる青年でも、不幸なことに貧乏人の子に生まれて来たら、とても十分に学問する資力はないだろう。それでも何とか勉強したいというのは、従来の考えからすれば過分のぜいたくになる。

しかし私は、それを必要だと見る。反対に億万長者が一夜の歓楽に千金を使うようなことは、たとえその人にしてみればノミが刺したくらいのはした金だろうと、それを使って一夜の歓楽をむさぼるのが、ただその人の健康に無益なだけでなく、かえってその人の道徳を損なうだけに終わるなら、私はそれを本当のぜいたくだと言う。
(12月18日)

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訳注

※億万長者:原文「百万長者」。例によって1337倍すれば、13億3千7百万円持っていれば長者、というわけ。現代でもこれなら長者と言って良かろう。

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コメント

  1. […] 人はよく生きるために生きている。人生の目的は、よい人になることだ。「本来備えた道徳を輝かし、他人と親しみ良き人となることだ。…これら以外に、人生の目的はないだろう。」(河上肇)。「忠信丘の如き者あらん」とはそういうことで、本など読まねど分かる人には分かる。 […]