『貧乏物語』十二の二 考えてみると…

現代語訳

考えてみると、現在起こさなければならない事業で、ただ資金がないために放棄されているものはたくさんある。手近な例を言えば、農業の改善点はたくさんあるだろう。しかし資本がない、借りようと思えば利子が高く、てとても引き合わない。こういう事情で様々の有益な事業が放棄されたままになっている。

しかし現在余裕のある人々が、ぜいたくのために使っている金額はたいしたものだ。それらの人々が、もしいっさいのぜいたくを廃止すれば、これまでそういう事に浪費されていた金は皆浮いて出て、ことごとく資本になる。また、そういうぜいたく品を製造する事業に吸収されていた資本も、皆浮いて来る。そうなれば、いくら資本が欠乏している日本でも、十分に様々な事業を経営するに足るだけの資本が出て来るはずだ。

私は、日本の経済を盛んにする根本策は、機械の応用を普及する事だ、それを年来の持論にしているが、実はその機械の応用には資金がいる。機械の応用が有益で、しかも必要なことは誰でも認めるが、これを利用するための資本が乏しいのだ。しかし以上述べ切ったように、皆がぜいたくをやめれば、その入用な資本もすぐに出て来る。

今日では資金の欠乏のために、農業の改良も充分に行なわれないというが、資本が豊富になれば、その改良なども着々行なわれるだろう。そうすれば米もたくさんできるだろう。たくさんできればおのずから米価も下がるが、しかし同時に他の生活必需品もすべて安くなる。だから米を買う人々が幸せになると同時に、米を売る農家もさしつかえないわけだ。米価の調節などといって、強いて米の値を釣り上げるために、無理な工夫をする必要もなくなる。

今日ドイツが八方に敵を受けて、年を経ても容易に屈しないのはなぜか。開戦当時は、ドイツは半年もたたないうちに飢えてしまうだろうと思われていた。しかも今なお容易に屈しないのは、すでに述べたように、驚くべき組織の力で、開戦以来、上下こぞっていっさいのぜいたくを中止したからだ。

たとえば食物については、今日ドイツでは、パンや肉の切符というものがあって、上は帝室大公家を始めとして、各戸とも口数に応じて生活に必要なだけの切符を配布されることになっている。万事こういう調子で、すべて消費は必要程度にとどめる一方で、労働はすべての人がおのおのその能をつくすことになっている。だから容易に屈しない。

過去数年の間、世界一の富裕国イギリスが、今では300億円以上に達する大金を費やして攻め掛けているけれども、とにかく今日まではよくこれに対抗できたのだ。これを見ても、皆が平生のぜいたくをすべて廃止すれば、どんなに多くの余裕が生じ、いかに大きな仕事を成しとげられるかがわかる。

私は日本のように立ち遅れた国は、ドイツが戦時になってやっていることを、平生から一生懸命になってやっていかないと、到底国は保てないと憂いている。

ぜいたくを抑えることは、政治上制度の力でもある程度まではできる。しかし国民全体がその気持ちにならない以上、外部からの強制にはおのずから一定の限度がある。それは徳川時代のぜいたく禁止令の効果を振り返ればわかることだ。だから私は制度の力に訴えるよりも、まず個人の自制に期待したい。

長々と数十回、今に至るまでこの物語を続けて来たのも、実は世の富豪に訴えて、少しでもその自制を願おうと考えたことが、著者の最初からの目的の一つだ。貧乏物語は貧乏人に読んでもらうよりも、実は金持ちに読んでもらいたいのだった。
(12月14日)

訳注

訳者は河上先生と、経済上の思想で相容れない、とまえがきで書いた。経済は社会の根本であるからには、政治思想も相容れない。この回で先生が勧めるドイツの統制主義が、その後ヒトラーやスターリンや毛沢東、近衛文麿や東条英機の暴政の始まりだと知っているから。

マルクスの所説をばかげている、と見るのも同じで、コミュニズムは人間がみな聖人君子にならないと成り立たない。当のマルクスがその代表で、稼ぎもしないでどしどし子供を作り、食わせられないから飢え死にさせて、貴族出身の奥さんにさんざん苦労させて、エンゲルスにお金を恵まれて暮らしていた。立派なことを説くけれど、あんたにも胃袋と下半身があるじゃないか、というわけ。

だがドイツ式統制主義やマルキシズムのこうしたいかがわしさを、当時の日本に伝える手段があったかどうか。画期的な情報媒体たるネットにこうして書いている訳者が、だから河上先生は間違ってるんだ、と思うのは許されても、愚か者とか人間が疑わしいとか、そういう評価をすべきでないと思う。

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