『貧乏物語』十二の一 さんらんの…

現代語訳

さんらんの翡翠(ひすい)の玉の上におく つゆりょうらんの秋はきにけり
秋ふかみこごしく雨の注げばか こころさぶしえとどまりしらず

今日、友人がくれた手紙の端には、こんな歌が記してあった。まったく、心に思うことどもを次々に語りゆくうちに、いつの間にか秋もいよいよ深くなった。この物語を始めた折は、まだ夏の盛りを過ぎたばかりで、時には氷を呼んだこともあったが、今はもう、火鉢に親しむ季節になった。

もともとが分に過ぎた仕事だったから、やせ馬が重荷を背負って山坂を上るよう、休み休みしてようやくここまでたどって来たが、もうこれで峠も越した。これよりはいっそのこと近道をして、早くふもとにおりようと思う。

私は前回で、私の議論はすでに社会問題解決の第三策を終えて、とうとう第一策に入ったと言った。ぐちゃぐちゃと長く論じてしまい、読者はもううんざりしていると思ったから、私の言う第二策は、論じないでおくつもりだ。

その第二策とは、「貧富の格差をなくし、いわゆる普通の人の間に、格差がないようにすること」で、よく言われる社会政策の大半は、このたぐいだ。言うまでもなくそれは、穏健で無難な方策だが、もし徹底的にやろうとすれば、その多くは第三策と違わない。

あのロイド・ジョージの社会政策が、しばしば社会主義だと非難されたのも、社会政策というものはたいていが、社会主義の一部、またはそれをゆっくりと実現する政策だと見なせるからだ。

×       ×       ×

〔この世から貧乏をなくすためには、〕社会組織の改造よりも、人の心を改造することが、根本的な対策だとは、私が何度も書いたとおりだ。考えてみれば、われわれが今問題にしている貧乏の根絶も、もし社会の全ての人々が、自分の心がけを一変できるなら、社会組織を全く今のままにしておいても、問題はすぐにも解決できてしまう。

その心がけとは、口で言えばきわめて簡単なことだ。つまり消費者は、無用のぜいたくをやめる、ただそれだけの事だ。私が先に、金持ちのぜいたく禁止を貧乏退治の第一策としたのは、これが理由だ。

考えてみればぜいたくというのは、どうも今の世の中では、大変に誤解されているようだ。たとえば巨万の富を持つ金持ちおやじが、自分の娘のために高価な帯を買うようなことは、全く当然と思われている。高価な帯を買ったことが、実は飢えた貧しい子供の口から、食べ物を奪うことになるとは、金持ちの想像も付かないことだ。

たぶん彼らも普通人と同じように、また普通の人以上に、人情にあつい善人だろう。だから自分の娘の衣装のために、ずいぶん沢山のお金を使っても、それは自分の身分相応、全く当然のことと考えているだろう。さらに、自分らがそういう事に金を使えばこそ、世間の商人や職人に仕事もありもうけもあって、彼らはそのおかげでやっと食べていける、その程度に考えているのが普通だろう。

しかし、これは全くの誤解なのだ。そしてこの誤解のせいで、どんなに世間の貧乏人が、迷惑しているかわからない。

なぜかと言えば、今の世の中で、一方ではいろいろなぜいたく品が盛んに作り出されているのに、他方では生活必需品の生産高が、とんでもなく不足しているからだ。このため大勢の人間が、肉体の健康を維持するだけの物さえ、手に入りにくいありさまになっている。

これはすでに中編にて述べたように、せんじつめれば余裕のある人々が、いろいろなぜいたく品を欲しがり、買うお金があるからだ。ここでこうした事情を表面だけ見れば、商人がいろいろなぜいたく品を作って売るから、それを買う人があるように見えるけれども、それは本末転倒の見方なのだ。

実は、そういうぜいたく品をこしらえて売り出す人があるから、買う人があるのではなく、そういう物を売れば買うよと言う人がいるから、商売人がそういう品物をどんどんこしらえて売り出すのだ。

もちろん売り買いの間には、互いに因果関係があるから、生産者の責任も、いずれあとで説くつもりだ。しかしどちらが根本的かといえば、生産が元ではなくてむしろ需要が元なのだ。もしだれも買い手がいなかったら、商人は売れもしない物をどんどんこしらえて、いたずらに損をするはずがない。

いくらでも売れるから、次第に勢いに乗って、さまざまのぜいたく品を作り出すのだ。だから〔本来は〕田舎で米を作るはずの人が、都会に出て錦を織る職人になるわけだ。農業の改良に使われるはずの資金も、地方を見捨てて都会に出て、風俗産業の建築費などになる。こうして労力も資本も、その大半はぜいたく品製造のために奪い取られて、生活必需品の生産は、不足することになるわけだ。
(12月13日)

訳注

※)風俗産業:原文「待合」。

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