『貧乏物語』十の五 レーン氏の企てた…

現代語訳

レーン氏の企てた理想国の建設は、前回述べたような経過で着々と進行し、ついに12,000円〔3,740万円〕を投じて、600トン※1の汽船「ロイヤル・ター」号を買い入れた。まず第1回の移民として、250名の男女がレーンとともにこれに乗って、南米に出発することになった。

さてその出発の光景、航海中の出来事、あるいは目的地到着後の事業の経過などは、学問上興味ある事実も少なくない。しかし私は今、一々それをお話しする余暇をもたない。

私がこの話を持ち出したわけはただ一つ、最初は天下に実物教育を施す意気込みで始められたこの事業も、ついには失敗したという事実を伝えて、組織が必ずしも万能でないことを説くためだ。

私はレーンらの計画した理想国の組織に、全く問題がなかったとはぜんぜん思わない。しかし彼らは現代の経済組織を否定し、これでは理想的な社会はとてものこと実現できないと信じた。そこで手に手を取って母国を見捨て、人も住まない南米の一角に、理想郷を建設しようとした。

だからその新社会の組織からは、少なくとも彼らから見て、現代の個人主義的組織が持つ最大の欠点を、取り除いてあるに違いない。しかもそれがついに失敗したのを見れば、理想社会には必ず組織が要る、わけではないとわかるだろう。

ドイツもイギリスもフランスも、一国の運命を賭けた危機に遭遇したから、経済組織の改造を着々と行った。その新組織は、今のところ長所だけ発揮して、まだ短所をあらわしていない。けれども戦争が済んで国民の気分がゆるんできたら、金のある者はぜいたくもしたくなるだろうし、一生懸命に国家のために働くのもばからしくなって、あるいは多少くずれてくるかもしれない。

レーン氏の言った、「みんなの福祉を図ることが各個人の第一の義務であり、また各個人の福祉を図ることがみんなの唯一の義務」という主義を、かたく信じて疑わず、普段の行いをこの主義どおりに出来る人々には、このような主義で計画された社会制度が、最上の組織でありうる。

しかし利己主義者を利他主義の組織でまとめるのは、重い石をぺらぺらの絹で包むようなもので、すぐに組織そのものが破れてくる。だから戦後の欧州が、はたして戦時の組織をそのまま維持できるかどうかは、もちろん疑問だ。

しかし人間は、境遇を造ることができるし、同時に境遇がまた、人間を造る。英独仏などの交戦諸国の国民は、国運を賭けた境遇に出会ったために、たちまち普段の根性を改めて、ずいぶんと献身犠牲の精神を発揮できた。

だから普段なら、議会も世論も大反対するに違いない経済組織の大変革を、こんにちわけもなく着々と実現した。これは境遇によって一変した人間が、さらにその境遇を一変させたのだ。

その上境遇は人間を支配するから、もしこの上戦争が長びき、人々が次第に新しい経済組織に慣れてくると、あるいは戦後にも、戦時中の組織がそのまま維持されるかもしれない。

それどころか戦後もしばらくの間は、どの国民も戦時と同程度の我慢を強いられるだろう。だから戦時中の組織が戦争の終結とともに、すぐに全部取り消されて、全てが元通りになる事はあるまい。少なくとも私はそう考える。

それゆえ、私はプレンゲ氏※2とともに、1914年はおそらく、経済史上の一大画期だったと、将来言われるようになると思う。
(12月8日)

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訳注

※1)600トン:うっかりすると「そんなものか」と思ってしまうが、南太平洋を突っ切るには、ずいぶんと小船なことがわかる。

南太平洋

南太平洋

一行が目指したパラグアイは内陸国だから、仮にシドニーから船出して、太平洋側のチリの首都・サンチャゴまで航海したとする。この間の距離は11,356km!で、東京-ロンドン間より1,780km遠い。今の飛行機でさえ、13~18時間かかるという。
参考:http://www.chireki.com/earth/great_circle.htm

地球一周がだいたい4万kmであることを思えば、とんでもなく長い航海であるとわかる。逆にインド洋を西向きに進む手もあるが、遠い上この小船では、名にし負う喜望峰沖の荒海に難破は必至だから、現代空路と同じ、東向き航路と想像する。

南太平洋大圏コース

南太平洋大圏コース

なお横浜からアメリカ西岸のシアトルまでの距離は、だいたい7,700km。

氷川丸

氷川丸(画像出典:wiki)

戦前この間を結んでいた氷川丸は、現存する日本唯一の元航洋定期船だが、その大きさは11,622トンで、ロイヤル・ター号とは全く比較にならない。

もう1つ比較として、東京の勝どき桟橋から小笠原の父島・母島までを結ぶ、第二十八共勝丸を取り上げれば、その大きさは317トン。これは貨物船で、便乗できる乗客は9人、加えて乗員7名と記憶する。

共勝丸

共勝丸(画像出典:wiki)

だいたい3日間をかけて1,000km弱の距離を、黒潮を突っ切って行くのだが、船尾に座って何一つ見えない空と海を眺めながら、手のひらを波面にひたし潮を切っていると、絶海のただ中にいることがよく分かる(動画は訳者撮)。

その3日間というのも運がいい方で、少し海が荒れると流されて、場合によっては一ヶ月かかる、と船員さんからじかに聞いた。現代の船でもこのありさま、約2倍の大きさがあるとはいえ、1万kmを250人も乗れば、どんなに窮屈か想像できる。

ここで本文と同時期の日本の南米移民船、笠戸丸を参照する。6,000トンのこの船は、「移民用としては、船底の貨物室を蚕棚のように2段に仕切って使用した。最大1000人程度の移民を収容できたようである」とwikiにある。

笠戸丸

笠戸丸(画像出典:wiki)

収容、とあればその接遇がわかる。トン数1/10のロイヤル・ター号なら、収容人数は100人に相当する。その2.5倍の移民を詰め込んだ小船が、大洋のまっただ中で地球の1/4周以上の航海をすればどうなるか、想像力が試されるように思う。

なお600トンと言えば、鹿児島市と桜島を結んでいるフェリー、第五櫻島丸がその大きさ。

第五櫻島丸

第五櫻島丸(画像出典:トリップアドバイザー)

約3.5kmの距離を約15分で結んでおり、訳者も乗騎と共にお世話になり、船上で供されるさつまあげ入りのうどんを、急いですすった記憶がある。このようないわば「渡し船」で、南氷洋の荒波を突っ切っていった勇気だけには、感服したい。

※2)プレンゲ氏:十の一参照。

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