『貧乏物語』十の四 ところで話は…

現代語訳

ところで話は変わるが、1889年にロンドンの造船所で、労働者が一斉にストライキを起こして世間を騒がしたことがある。ところがこれらの労働者は全て烏合の衆で、何も有力な労働組合を組織していなかった。というわけでせっかくストを企てたものの、彼らはたちまち衣食に困ってじきに復業するだろうとは、当初世人一般の予想だった。

しかしその時思いがけもなく、はるかに海を隔てた豪州から、電報で30万円〔9億5千万円※1〕を送った者があって、そのおかげで労働者はついに勝利を制した。豪州の社会党が、何も利害関係を持たないロンドンの労働者に30万円を寄贈したというこの一事件は、豪州社会党と、その背後にいた一人物ウィリアム・レーンなる者が、広く世間の注意をひいた最初だ。

そのレーンなる者はその後、進んで南米の一角にその理想とする社会主義国を実現しようと企てたことで、さらに有名になった。ここで、1890年に彼がその計画を実行しようと公にした宣言書を見ると、その要旨は次の通り。

「真の自由と幸福は、次の条件がある限り、到底望めない。その一つは、働く者は他人に雇われなければならない、という仕組みが続くことだ。もう一つは、われわれの生活を互いに保証する仕組みこそ、全ての人にとって最善だと理解しないことだ。その原因は、生活不安のために誘発された、われわれの利己心が理解を妨げるからだ。

(中略)だから今日の急務は、全ての者が共同の利益のために働く一社会を創ることだ。そしてそのような社会を創ることで、愉快・幸福・知恵と秩序の中に生活しうるという、実際の証明をしてみせることだ。こうした生活は、自分や子孫が明日にも餓死しないとも限らない、今日のような社会では、到底味わうことができない。

全ての者が共同の利益のために働く社会では、ある人が他人を虐待することが絶対に不可能になる。また、全ての者の福祉を図ることが、各個人の第一の義務であり、また各個人の福祉を図ることが、全ての者の唯一の義務になる。こうした主義の下で幸福な生活ができると証明してみせてこそ、真の自由と幸福が望める。※2

レーン氏はこのような宣言を公にした後、各地を走り回って熱心に、その計画が有益で必要なことを伝道したところ、志を同じくする者が少くなかった。その勢いで、人を欧米に派遣して理想国建設の地を探させ、ついに南米のパラグアイをその地と定め、その理想郷に『新豪州※3と名づけた。定められたその加盟条件は、次の通り。

「この組合の加入希望者は、目的地に出発する際、所有する全財産をこの組合に提供すること。ただしその出資は600円〔190万円〕以上であること。この出資は後日組合を脱退しても、全く払い戻さない。また50歳以上の者は、その出資額が千円〔320万円〕以上でなければ加盟できない、うんぬん。」

さて規約をこの通り定めて世間に公開してみると、はたして加盟者が続々と現われて、中には巨額の資金提供を申し出た者もあった。そこでレーンも大いに感激して、「同志の人々が、その多年の苦労でやっと儲けた金を、このように何の不安も疑いもなく自分に託して来るのを見ると、涙を流さずにはいられない。これほどの信頼にそむくくらいなら、私はいっそ死ぬだろう」と言って、自分も約1万円〔3200万円〕の財産を出資し、全力をささげてその事業に従事することを誓った。
(12月7日)

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訳注

※1)価格換算は例によって金価格による、3177倍の概数。

※2)宣言書の要旨:原文は下記の通り。文の構造がここまでぐちゃぐちゃになっている以上、順序通りに現代語訳することは訳者の能力を超える。よって大幅に文を切り、前後を入れ替えた。これまでにも同様の訳文を書いたことを、ここで白状しておく。

※3)新豪州:ニューオーストラリア/ヌエバオーストラリア。河上先生はお書きになっていないが、リンク先のwikiによると、この入植地ではレーンの趣味で、禁酒だったらしい。大酒飲みの訳者は、とうてい入れて貰えそうにない。

その他にも理由がある。理想郷建設をパラグアイが受け入れたについては、当時白人人口の少なさに悩んでいたパラグアイ政府が、変な連中の集まりとはいえそこは白人なので、一応は黙認したという事情があったらしい。

この計画は2年後には現地で破綻したが、禁欲主義を掲げたがる、小規模理想郷の通例に背かない。とりわけ禁酒以外にも、入植者の間で様々な主義の相違や対立の種があったようだ。その後一部の入植者は現地に止まり、その子孫は今もパラグアイにいるという。

なお死ぬ死ぬと涙をこぼしたレーン自身は別に死にもせず、破綻後にニュージーランドに渡ると、元来の人種差別に加えてウルトラ帝国主義者に変身、一次大戦中はせっせと悪口を新聞に書き、猛烈な反独感情を煽ったとwikiにある。煽られて送られたANZAC兵が、ガリポリで蜂の巣にされたのは史実の示すとおり。

ウィリアム・レーン

ウィリアム・レーン(画像出典:wiki)

本当に死んだのは、河上先生のこの文が紙面に掲載された翌年、1917年8月26日のことという。なお原文のレーン宣言書部分は以下の通り。

働くためにある者は他人に雇われなければならぬというしくみが維持せらるる限り、またわれわれが、生活の不安のために誘発せらるる利己心の妨げによりて、われわれの生活を相互に保証するのしくみを採るはすべての人にとって最善の方法たることを理解するに至り得ざる限り、真の自由と幸福は到底望まるべくもない。(中略)それゆえ今日の急務は、すべての者が共同の利益のために働くという一の社会を創設し、これによりて、ある人が他人を虐待することの絶対に不可能なる条件の下においては、そうしてまた、全体の者の福祉を図ることが各個人の第一の義務であり、また各個人の福祉を図ることが全体の者の唯一の義務であるという主義の下においては、すべての男女が、だれの身にとっても自分自身または自分の子孫があすにも餓死せぬとも限らぬという今日のごとき社会において到底味わうことのできぬ愉快、幸福、知恵及び秩序の中に、生活しうるという実際の証明を与うることである。

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