随筆「小国寡民」

現代語訳

放翁東籬の記に、こう書いてある。

わたし放翁※1が官職を辞めて隠居してより三年めのこと。草ぼうぼうの東の庭を刈った。広さは南北七十五尺※2〔2.25m〕、東西は広くて十八尺〔5.4m〕、狭いところで十三尺〔3m弱〕。竹を編んで垣根〔籬:まがき〕にしたが、この庭の広さと同様、ささやかなものだ※3

五石※4〔約60リットル〕入りの瓶〔かめ〕を埋めて、泉の水を貯めて池にし、葉の生い茂った白い親芋※5と、蓮を植えた。またその他の木のたぐい、草のたぐい若干を交えて植えた。この小庭を東籬〔とうり、ひがしのまがき〕と名付けた。

放翁は毎日この庭を歩き回り、あの草この木の香りを嗅ぎ、それらの穂先を摘んで楽しんだ。朝には水をやり、午後※6には耕した。子供たちは、草木の新芽を包んだ薄皮が開くたび、花が満開になるたび知らせに来て、いたずらしなかった。

放翁はここではたと思い立ち、植物の研究を始めた。草木の性質を見て事典※7をめくり、それぞれの種類を調べ、昔の詩や文学作品に出てくるものと比べて※8、面白いなあと感じた。初めは植物の興味から、こうした古典の読み方にまで調べが進んで、一作品逃すことなく読みふけり、古代以来の文体の移り変わりを繰り返し研究した。

さらに、時には自分でもさまざまな種類の詩※9を詠み、自然や風景と風流をやりとりした。こうして自分一人で目や体を楽しませ、平和なその日その日を送っただけではない。思い至ったことがある。

昔、老子が本を書いて文末にこう記した。「小さな国に少ない民〔小国寡民〕こそが理想の国。今ある服を喜んで着、自分の住まいにのんびり暮らし、現在の生活を楽しむ。隣の国の方を眺めると、にわとりや犬の鳴き声が聞こえるぐらいに近いが、民は老いて死ぬまで行き来しようとはしない。満足しているから。」

なるほどなあと思った。老子先生に小さなまちを任せたら、本当にこんな理想郷が出来るだろう。そうだ、そうだよ、私のこの東籬の庭。これもまた小さな小国寡民だ。開禧※10元年〔1205年〕四月乙卯記す。

私〔河上〕はこの一文を読んで、放翁が晩年に過ごした、ささやかながら美しい幸せを、何ともうらやましく思う。

私はもともと、大きなお屋敷や華美な居室を好まないが、とりわけ晩年になって隠居するようになってから、小さな部屋が二つか三つかあるだけの、庵のような家に住みたいと、空想し続けている。

頼山陽が日本外史を書いた山紫水明楼は、四畳と二畳との二間からできていたそうだが、今私は、書斎と寝室を兼ねるのなら、四畳半か三畳で結構だし、書斎だけなら三畳か二畳で結構だと思つている。そのかわり私は家の周囲になるべく多くの空地を残しておきたい。広々とした土地を取囲んだ屋敷の片隅に、小さな住宅が建つているのが好ましい。残念なことに、京都では借りようと思つても、そんな家はほとんどない。

京都人はどういうわけか、せせこましい中庭を好んでいる。郊外の相当広い所でも、京都人が家を設計するとなると、座敷と座敷とに挟まれた中庭を作つて、その狭い所へ、ごてごてと沢山の石を運んで来て、山を築き池を掘り、石橋を架け石燈籠を据え、松を植えモッコクを植えツツジを植えなどして、お庭らしいものを作る。

どんなに小さな借家の僅かな空地でも、なるべくそれに似たものにするのが、京都人の流儀だが、私はそうした人為的な庭を好まない。ただの平地に植えられた、色々な種類の花々に取り囲まれている家――家の小さな割に地面の広いのが望みである。私は東籬の記を読んで、ちよっとそんな風な住まいを想像する。

放翁は五つの石瓶※11を埋め、それに泉を貯えて沢山の白蓮を植えたと言っているが、私も出来ることなら、そうした水は欲しいと思つている。今〔1945年、昭和20〕から三十年前、始めて京都へ赴任した時※12、千賀博士※13のところへ挨拶に行ったら、それは藁ぶきの家だったが、客間の南は広々とした池になっていて、よく肥えた緋鯉が、盛んな勢いで新陳代謝する水の中を泳ぎ回っていた。

私はそれを見て、ひどくうらやましく思ったものだ。そこは下鴨神社のすぐそばで、高野川の河水が絶えず浸透している低地なので、少し土を掘れば、たぶんこうした清泉が自然にほとばしり出ていたのだろう。総じて京都のやうな、山に囲まれた狭い盆地の中を川が流れている所では、山の手に限らず市中でも、少しばかり土を掘り抜くと、水のふき出る場所が多い。

放翁はさらに、樹木のたぐい若干と草花のたぐい若干とを交えて植えたと言っているが、これこそ私の最も真似したく思うところだ。私は大学生時代※14、下宿にいた頃には、縁日で売る草花の鉢をよく買って来て、机の上や手摺のあたりに置いて楽んだものだ。その頃、そんなことをする仲間はほとんど一人もいなかったので、君は花が余程すきだと見えるなと、人から何度も言われていたものだ。

今、晩年に及んで、もし私の好きなように出来るなら、私は自分の書斎を様々な草花で取巻くだろう。私は松だのモッコクだのを庭へ植えようとは思わない。総じて陽を遮る樹木のたぐいは、イチヂクだけは私の好物なので例外だが、なるべく少いのが望ましい。紅梅の一株、ただそれだけで事は足りる。

花もつけず実もつけないものでは、私はただ竹だけを愛する。しかしそれも脩竹千竿〔しゅうちくせんがん〕※15などと呼ぶようなうっとうしい竹やぶは、自分の住いとしては嫌いだ。書斎の丸窓の側に、ほんの二、三本の竹があればよいと思っている。そのほかの空地には、人為的な築山など作らず、石燈籠なども置かず、全部平地にしてそこへ草花を一面に植えたい。

草花といっても、私は西洋から来たダリヤなど、余り派手なものは好まない。百日草、桔梗、芍薬、牡丹、けし、そうした昔から日本にある種類のものが好ましい。そうはいうものの、今の私にとつては、死んでしまうまで、たとえどんなに小さな庵にしろ、自分の好みに従って維持できるような望みは絶対にない。ただ放翁の文など読んでいると、つい羨ましくなって、はかない空想をあれこれたくましくするだけのことである。

放翁の東籬はうらやましい。だが、老子の小国寡民はまたこれにも増してうらやましく思われる。

人口多き大国、富国強兵を目標に、軍国主義、侵略主義一点張りで進んで来た我が日本は、大バクチの戦争を始めて一敗地にまみれ、あす九月二日には、米国、英国、ソビエト連邦、中華民国等々の連合国に対し、無条件降伏の条約を結ぼうとしている。誰も彼も口惜しい、くやしい、残念だと言って、悲しんだり憤ったりしている最中だが、元来敗戦主義者である私※16は大喜びに喜んだ。

これまでの国家というのは、国民の大多数を抑圧するための、少数の権力階級の弾圧機構に過ぎない。戦争に負けてその弾圧機構が崩れ去り始めるなら、大衆にとってこれくらい幸せなことはないのだ。私は、日本国民がこれを機会に、老子の言う小国寡民の意義が、どんなに深いか悟れば、今後の日本人は以前に比べて、かえってはるかに幸せになると信じている。

元来、外は他民族に向って暴力武力を用いる国家は、内には被支配階級である国民に対しても、また暴力的武力的圧制をするのが常だ。他国を侵略することで主に利益がある者は、少数の支配階級権力階級に止まり、それ以外の一般民衆は、たかだかそのおこぼれにうるおうに過ぎず、しかも年がら年中、圧制政治の下に窒息していなければならない。

それは決して幸福なものではありえないのだ。今や日本は、敗戦の結果、武力的侵略主義を放棄することを余儀なくされて来たが、それと同時に、早くも国民の自由は、みるみるうちに伸ばされようとしている。有り難いことなのだ。もし更に一歩進んで、ここ二、三年のうちに、国を挙げてソビエト体制にでも移ることが出来たら、それから四、五年の内には、戦前の生活水準を回復することが出来、その後はまた非常な速度を以て民衆の福祉は向上の一路をたどることともなろう。

私はこれについて、今ではソビエト連邦の一部となっている、コーカサスを思い浮べる。このコーカサスは、ロシアのヨーロッパ部分と、アナトリア半島とを繋ぐのど首のようなところで、南はトルコとペルシャに境を接し、東はカスピ海、西は黒海に面している四十余万平方キロの土地だ。

その面積はほぼ日本の本土と同じだが、(日本の本土は約三十八万平方キロ、戦前の総面積は六十七万五千平方キロであった、)住民の数はたったの千二百万で、戦前の日本の総人口一億五百万と比べたら、ほとんど十分の一に過ぎない。しかもそれが若干の自治州と七つの共和国に分れている。小国寡民の地と称せざるを得ない。

しかもこのコーカサスは、第一次世界戦争以前の帝政時代には、いたるところに富豪貴族の別荘があり、ロシア皇帝の離宮もあって、富豪や貴族が冬は避寒に、夏は避暑に訪れたところで、クリミア地方とともに、ロシアの楽園と称されている地方だ。一般に園芸に適しており、特に黒海沿岸では、非常にいいリンゴや梨や桃を産するばかりか、バトゥミ市付近からは、蜜柑、レモン、カンランの実などが盛んに産出され、ブドウもまた沢山取れ、「新鮮な果物を食おうとする者は、必ずコーカサスへ行かなければならない」とたたえられている。

そればかりか、「絵を描こうとする者も、変った人情風俗に接しようとする者も、湯治のためには病人も、みな必ずコーカサスへ行かなければならない」とたたえられている。それは第一に、風景絶佳の地だからだ。「コーカサス軍道の風光の雄大秀麗は、あまねく日本内地を周遊した筆者も、その比〔較できる景色〕を求むるに苦しむ」と、正親町季董氏※17は言つている。

第二にそこには様々な人種が住んでいて、しかもそれらの人種がそれぞれ風俗習慣を異にしているからだ。中でもグルジア人※18の服装は非常に美しいもので、男子は羊の毛皮で作つた高い帽子をかぶり、裾長の外套を着、その上から銀で飾つた細い帯を締め、その帯には必ず短剣を挟んでいる。女にはまた美人が多いので昔から有名だ。自然コーカサスの山中には美しいロマンスの花が咲いたこともしばしばで、詩人プーシュキンや文豪トルストイなどは、よくこうしたロマンスに取材して、有名な作品を残している。

第三に、そこには山間の至るところに温泉が出ていて、そして全ての温泉場は、以前の皇帝の離宮や貴族たちの別荘と共に、今ではみな民衆のものとなっているからだ。実にコーカサスこそは、老子が「小国寡民〔くにちいさくしてたみすくなし〕、其〔そ〕の食を甘〔うま〕しとし、其の服を美〔よ〕しとし、其の居〔すまい〕に安んじ、其の俗〔たつき〕を楽〔たのし〕む」と書いた景色の模型と言って差し支えあるまい。

私は宏荘な邸宅に住むよりも、小さな庵に住むのを好むと同じように、軍国主義、侵略主義一点張りの大国の一員であるよりも、こうした小国寡民の国の一員であることを、むしろろ望ましいとする人間なので、これから先の日本が、どうなるか知らないが、ともかく軍国主義が一朝にして崩壊し去る今日に出会って、ことさらな喜びを感ぜざるを得ない。

ああコーカサス! 京都の市民の数倍にも足りない人口からなる、小さな小さな共和国。冬暖かく夏涼しく、食が美味くて服が美しく、人おのおのその生活を楽しみ、その住まいに安んずる小国寡民のこの地に、無名の一良民※19として晩年書斎のかたわらに、一つの東籬を営むことが出来たなら、地上にこれほど清々しい幸福な人生は、他にないだろうと思う。

今私はスターリンやモロトフ等の偉大さよりも、ひそかに、これらの偉人によって政治の行われている連邦の片隅に、静かに余生を送っているだろう、名も無き幸せな民が、うらやましくて仕方がない。
(昭和二十年九月一日稿)

スポンサーリンク

訳注

原文には画像無し。
元データ:青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/4299_14360.html

1)放翁:中国南宋時代の詩人・官僚、陸游のこと。彼がこのような境地に至るについては、当代きっての秀才でありながら、権力者の息子より試験の点数が良かった、ただそれだけのことで、出世の道を閉ざされたことを記憶しておいていい。
さらに人界を見る材料として付け加えておこう。彼はその才能から言えば、便所掃除のような仕事と彼が叫んでも良さそうな職(職に貴賤はない)を転々としながら、権力者は憎んでもその息子を決して恨まなかったことだ。息子も思うところがあったらしく、二人は良き友人として生涯を送った。陸游の家族が病の床にあったとき、息子は薬や医師を送っている。

2)尺:長さは日中でも、また時代によっても違うが、宋代ではだいたい日本と同じ約30cm。

3)この庭の広さ…。:原文「其地の数の如し」。訳者にはいまいち自信がない。

4)石:尺と同様、時と場所によって量が違う。今は仮に、宋代の規定10斗=1石と、隋唐時代の1斗=5.94リットルからその10倍とした。

5)親芋:原文「蕖」(きょ)。宋代ではまだジャガイモもサツマイモも中国には入ってなかったと記憶するので、サトイモのたぐいだろう。「白い」のはイモが白いのか、花が白いのかよくわからない。

6)午後:原文「莫」。訓読みは「くれ」。本来夕方の意味だが、電気のない昔では夕方に耕すことはなかろう。

7)事典:原文「離騒」。うっかりすると屈原の詩と勘違いしそうだが、宋代の植物事典、「離騒草木疏」のこと。

8)昔の詩や文学作品:原文「之を詩爾雅及び毛氏郭氏の伝に本づけ」。詩、爾雅、毛氏、郭氏、それぞれさまざまな文学書だが、この文を読む人に、いちいち意味のある言葉ではないと思う。

9)様々な種類の詩:原文「長謡、短草、楚詞、唐律」。8.に同じ。

10)開禧:南宋の寧宗の治世に使用された元号。

11)五つの石瓶:河上先生が引用した陸游の原文からは、石瓶が五つではなく五石入りの瓶、と読むしかない。弘法も筆の誤りということだが、ここは原文を尊重した。

12)始めて京都へ赴任した時:河上先生が講師として京大に赴いたのは、1908(明治41)年。

13)千賀博士:千賀鶴太郎?

14)大学生時代:河上先生は、1902(明治35)年、東京帝国大学法科大学を卒業している。

15)脩竹千竿:長く伸びた竹が千本も生い茂っていること。

京都嵐山、15.01.08、訳者撮影。

16)敗戦主義者である私:当時大部分の文化人は、河上先生と異なり、大いに戦争に協力した。その一人である菊池寛は、戦後になってそれを責められたとき、「国が戦うならそれに協力するのは当たり前だ」と言った。どちらにも理のあることだと訳者は思う。ただ、敗戦という結果に終わったことで、現在では河上先生の方に軍配を上げたい。

17)正親町季董(おおぎまち・すえただ):1873(明治6)年生、公董の三男。1889(明治22)年5月6日、男爵受爵で正親町伯爵家分家。東京帝国大学法科大学政治科卒業、司法大臣秘書官を勤めた。華族廃止論を唱えた。のち山下汽船会社顧問(「万朝報」1919(大正8).10.8)。

18)グルジア人:原文「ゴールック人」。ジョージア人と呼ぶのが訳文を書いている2016年現在では正しいのだろうが、訳者にはアメリカのジョージアとどうも区別がつかない。

19)無名の一良民:訳者は「良民」とあるこの言葉に、河上先生の万感の思いを感じ取る。大学を追われ世間を追われ、思想犯として逮捕され断罪された先生が、晩年になってご自身の身の上をどんなに思ったことであろうかと。

美しいカフカース(コーカサスのロシア語読み)諸国でどんな弾圧が当時あったか、偉人と先生が呼ぶスターリンやモロトフが、先生の言う「少数の支配階級権力階級」の弾圧者、それも史上空前の虐殺者であったことを知る訳者は、先生が本当にお気の毒でならない。
この文をお書きになってから半年足らずの翌昭和21年1月30日、河上先生は67歳で亡くなった。

訳者あとがき

先生がこの文の筆を擱(お)いた、9月1日にお詠みになった歌を挙げておく。

饅頭が 欲しいと聞いて 作り来と 出だせる見れば 餡なかりけり

『枕上浮雲』を読むと、敗戦直後の食糧難は先生をも追い詰めていて、昔は饅頭なぞ仏壇に山と盛ったものを、と嘆く歌もお詠みになっている。先生が亡くなったのは無論寿命もあったのだろうが、『貧乏物語』で論じられたような十分の食があったなら、今少し世におられたかも知れない。

あと三首、引用を続けよう。

今一度 起き上がらなと 思へども 思ふにまかせぬ わがよはひかな

八月二十七日

よくもまた 痩せけるものか 骨と皮 九貫〔≒34kg〕にも足らぬ 身となりにけり

九月六日

余りにも からだだるくて 腹が立ち 思はず荒き 声立てにけり

九月七日

なおこの訳文は、4/3の深夜から作業を始め、途中数時間の睡眠を挟んで翌朝0830ごろに終えた。陸游の引用部分を終えてから寝たのだが、訳の手間と精神的負担は、字数で全体の1/7に過ぎないこの漢文的部分の方が、はるかに大きかった。訳者はシノロジストとして、漢籍を読むのに相当の訓練を積んだ者だが、専門とした時代や分野が違うと、同じ漢文でもほとんど外国語に感じる。

それは漢文・中国語が持つ、きわめて悪質と言っていいごまかしに原因があって、こんな文章を読み書きしていたから、中国人は国を滅ぼしたのだと、戦前の中国知識人自身が言っていた、そう安能努先生が書いている(『八股と馬虎』)。

長らく中国を先進国と仰ぎ、上層階級がみな漢文でものを考え書いてきた日本だったが、今日では誰も漢文など読めはしない。私はシノロジストではあっても、それは非常に喜ばしいことだと思っている。

16.04.04脱稿

16.04.08追記。最後の訳注に関連して、河上先生は昭和16年12月10日、こう書いておられる。

人は落ち目になると僻(ひが)み根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら蕭条(しょうじょう)たる落魄(らくはく)の一老爺(いちろうや)、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰(ふぎょう)天地に愧(はず)る所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。
(中略)しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人からその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった些事(さじ)が、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。
「御萩と七種粥」

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)