旧ブログ版では訳注の無かった十二の二に、訳者はこう書き加えた。
訳者は河上先生と、経済上の思想で相容れない、とまえがきで書いた。経済は社会の根本であるからには、政治思想も相容れない。この回で先生が勧めるドイツの統制主義が、その後ヒトラーやスターリンや毛沢東、近衛文麿や東条英機の暴政の始まりだと知っているから。
マルクスの所説をばかげている、と見るのも同じで、コミュニズムは人間がみな聖人君子にならないと成り立たない。当のマルクスがその代表で、稼ぎもしないでどしどし子供を作り、食わせられないから飢え死にさせて、貴族出身の奥さんにさんざん苦労させて、エンゲルスにお金を恵まれて暮らしていた。立派なことを説くけれど、あんたにも胃袋と下半身があるじゃないか、というわけ。
だがドイツ式統制主義やマルキシズムのこうしたいかがわしさを、当時の日本に伝える手段があったかどうか。ネットにこうして書いている訳者が、だから河上先生は間違ってるんだ、と思うのは許されても、愚か者とか人間が疑わしいとか、そういう評価をすべきでないと思う。
全ての回に訳注を入れ、読みやすいようリンクを整え、サイトの体裁を整美した。旧ブログも求めにより、ケロ道具だけ移転復活。これでジャロン・ラニアー先生の言う、ネットへの恩返しは、済んだように思う。見知らぬ人に対する義理は、私にはもうない。
そしてマルクスの罪深さを思う。後世の者がその自己顕示欲*に気付かなかったのはこの際問わない。その結果どんなに罪のない人々が、無慈悲に殺されていった事実を知っていても。マルクスの論は端からウソ偽りだった。当人の我欲に過ぎない。
自分の気分が良ければ、どんなに奥さんに苦労させても全然気にしなかった男。性欲のまま奥さんを犯し、次々子供を産ませて食わせようともしなかった男。自分の妻子も愛せない男、子のミルクより秘書を雇った男。秘書が何であるかも疑わしい。
まず次男が1歳で、5年後に長男が8歳で餓死、2年後には三女も死んだ。また愛人との間に産まれた息子を認知せず、息子はただの工場労働者になるしかなかった。自分の子供を三人も殺し葬儀も出さなかった男が、世間を愛せるわけがない。
生涯働かず、まず奥さんの財産を食いつぶし、次には友人からタカって回った。多くの友人はあまりにしつこいせびりに遭って決別した。最後まで付き合ったエンゲルスの奥さんが亡くなった時、そんなことはいいからカネよこせ、と返信している。
やがて衰え、泣き声も出せず餓死した子供。それも自分のだ。頼る者はマルクスしか居ないのに。下品なことは書くまいと誓ったが、この男は許せない。クズのクズ、人でなしの人でなし。こんな奴を担ぎ回り殺し回った連中の、救い難い頭の悪さよ!
マルクスなしでも、国家統制主義ゆえの大量虐殺は起こったろう。歴史屋としてそれは認める。ならばマルクスなしでも、資本主義の矛盾に気付く、もっと慈悲深く、もっと己を知り、もっと世間を知った学者がいたはず。クズより世間で目立ったはず。
誰がマルクスを目立たせたか? 同時代のアカとジャーナリストどもだ。院生崩れのような連中が、同じ事に気付いたであろう一群から、最悪の男を選び出した。最も民主的なワイマール憲法が、最も邪悪なヒトラーを選び出したように。問題は中の人だ。
今の日本と同じであろう。目立つ、目立たせることでメシを食ってる連中に、ろくな人間は居ない。当然だ、人を道具や食材と見なさなければ、食える仕事でないから。そして大概は人文の徒、これが悪の程度に輪を掛けた。いつも不足に怯えるから。
人文者(もの)の多くは自分や他人の文章に酔って、自分も周りも見えていない。こうあってくれとの欲望が、こうあるべしとの決めつけにすぐなる。そしてならないのを人のせいにする。ひ弱だから真っ当に戦わず、書くとか群れるとかテロに走ったりする。
もう一度言う。当時の社会の悲惨から、マルクスと同じ資本主義批判が出来た学者は、10人100人単位で居ただろう。その名は歴史に埋もれてもはや無い。だが心にも生活にも余裕があり、哀れを知り自他を知り、穏やかに説ける者が居たはずだ。
そうならなかった人類史の不幸を思う。
ロシア内戦:✝271万人
レーニンによるもの:✝少なくとも数十万人
スターリンによるもの:✝推計最大700万人
ホロドモール:✝400万~1450万人
国共内戦:✝最大175万人
大躍進政策:✝数千万人
文化大革命:✝40万~1000万人
ポルポトによるもの:✝120万~170万人
こういう数字に実は意味はない。正確な数いや概数すら、人の欲を離れた数字は人類の終わりまで出てこない。だがこう言っていい、数え切れない人々が殺された。つまり数として一人の人間が実感できるどんな数より、もっと多くの人が殺されたのだ。
近年、マルクス主義復活のニオイがする。クズに煽られたバカどもが、また狂い回って人を殺すのか。くり返しませんとの言葉はアホダラ経か。なんて人間は頭が悪いのだろう。物覚えが悪いのだろう。教え甲斐がないのだろう。もう飽き飽きした。
恥ずかしいことを書いた。気を直そう。同じく、十三の三に付け加えた訳注の一部。
虎は死んで皮を残す、という。私ごときは何も残せないが、例え死んでもgoogleサイトなら、後世に残ってくれるだろう。もちろん私は死ぬ気など全然無いが、天が死ねと命じたら、全ての生き物は死ななければならない。それはいつやってくるかわからない。
2016.4.1
九去堂