『貧乏物語』十三の三(未訳)

現代語訳

ありがたい事には、この物語も今日(こんにち)で無事に終わりを告げうることとなった。私は最後の一節に筆を執るに臨み、まず本紙(大阪朝日新聞)の編者が、休み休み書いたこの一学究の随筆のために、長く貴重なる紙面をさき与えられしことを深く感謝する。

さて私は最後に世界の平和について一言するであろう。思うに欧州の天地は今や大乱爆発して修羅(しゅら)のちまたと化しつつあるが、何人もこの大戦の真の当局者が英独二国なることを疑う者はあるまい。しからばなんのためのこの両国の葛藤(かっとう)ぞというに、ひっきょうは経済上における利害の衝突、これが両国不和の根本的原因である。

今私はその利害の衝突についてくわしく説明する余暇をもたぬけれども、要するに英独両国はすでに製品輸出の競争時代を経て資本輸出の競争時代に入りしこと、これがそもそも不和の根元である。

けだし一国の産業がある程度以上の発達をなす時は、商工業上の利潤が次第に集積されて資本が豊富になるために、これを国内の事業に投ずるよりも、むしろその余分の資本はこれを海外の未開国に放下する方、はるかに高率の利益をあげうることとなる。かくて貨物の輸出と同時に資本の輸出が経済上きわめて重大な問題になって来るのである。しかしてかの英国は今より五六十年前早くもかかる時代に到達せしもので、爾来(じらい)英国は南北両アメリカを始めとし、その他世界の諸地方に向かって盛んにその資本を輸出せしもので、現にその資本の利子のため毎年巨額の輸入超過を見つつありし事情は、人のよく知るところである。

英国に次いで資本輸出の時代に入りしものは仏国であった。しかしながら、仏国は次に述ぶるがごとき二個の理由によって、資本の輸出に関してはさして有力なる英国の競争者となり得ざりしものである。その第一理由は、同国における人口増加の停止である。これがため人口一人当たりの富は無論増加せしも、全国における資本増殖の速度は到底英国のごとく盛んなることあたわざりしものである。その第二の理由は、一般にフランス人は保守的なりということである。かかる事情にもとづき、同国の資本は主としてスペイン、ベルギー等の隣国に放下され、世界の資本市場においては到底有力なる英国の競争者となり得ざりしものである。されば久しき間世界の資本市場はほとんど英国の独占に帰していたのである。しかるに近時ドイツはにわかに産業上の大進歩を遂げ、まもなく資本輸出の時代に入りしのみならず、ことに今世紀に入るに及びては、年を追うてますます大規模の資本輸出を試むることとなり、これがため従来ほとんど英国の一手に帰属せし世界の資本市場は、ここに有力なる競争者を加え、英国の利益は日に月にますます脅迫せらるることとなった。かくのごとくにして英独両国の葛藤(かっとう)は結びて久しく解けず、ついに発して今次の大戦となるに至りしものである。

以上はしばらくセリグマン教授の解釈に従ったものであるが(同氏著『現戦争の経済的説明*』による)、私が今この事をここに引き合いに出したのは、これらの諸国が資本輸出の競争のために幾百万の生民の血を流さなければならぬという事が、ある意味においていかにも不思議であるからである。
* Seligman, The Economic Interpretation of the War, 1915.

今英国人にとっては縁もなき異国人たる私が、改めて彼らのために説くまでもなく、たとえば『エコノミスト』主筆ウィザース氏がその近業『貧乏とむだ*』の中に詳論せるがごとく、今日英国の本土内においても起こすべき仕事がなおたくさんにあるのである。私はこの物語の上編において、いかに英国民の大多数が貧乏線以下に沈落して衣食なお給せざるの惨状にあるかを述べたが、これら人々の生活必要品を供給するだけでもすでに相当な仕事が残っていると言わなければならぬ。さるにもかかわらず、最も資本に豊富な世界一の富国たる英国において、それらの仕事が皆放棄されたままになっているのは、それら貧乏人の要求に応ずべき事業に放資するよりも、海外未開地の新事業に放資する方がもうけが多いからである。かくて世界一の富国たる英国は同時に世界一の貧乏人国として残りつつ、しかも資本の輸出の競争のために国運を賭(と)してまで戦争しなければならなくなったのである。
* Withers, Poverty and Waste, 1915.

思うにもし英国の富豪ないし資本家にして、消費者としてはた生産者としての真の責任を自覚するに至るならば、ただに国内における社会問題を平和に解決しうるのみならず、また世界の平和をも維持しうるに至るであろう。

これをもって考うるに、ひっきょう一身を修め一家を斉(ととの)うるは、国を治め天下を平らかにするゆえんである。大学にいう、「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先(ま)ず其(そ)の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、まず其の身を修む。身修まって後(のち)家斉い、家斉うて後国治まり、国治まって後天下平らかなり。天子より以(もっ)て庶人に至るまで、一に是(こ)れ皆身を修むるをもって本(もと)を為(な)す。その本乱れて末治まる者は否(あら)じ矣(い)」と。嗚呼(ああ)、大学の首章、誦しきたらば語々ことごとく千金、余また何をか言わん。筆をとどめて悠然(ゆうぜん)たること良(やや)久(ひさ)し。
(12月26日)

スポンサーリンク

訳注

訳者はこの『貧乏物語』第十三部を訳していない。その理由は、

  1. くたびれた。自分が読むのと訳すのとは違う。
  2. ブログ掲載時に無反応だった。
  3. せめて結論部分は、先生の生のお言葉で語られるべきと思った。
  4. この方が美しいと思った。

最後について説明すれば、前近代の棟梁を思った。何百年も残るだろう壮麗な建築物には、必ず造作に「やりのこし」があるという。完璧など無い、という思想からと聞くが全くその通り。

もともとは、自分が読みたいから訳し始めた。書き写すに勝る読み方はないが、古い文の場合は、訳してみるに勝る読み方はないだろう。面倒くさがりの訳者が、ビタ一文にもならないこうした作業を行ったのは、ひとえに自分のため。

そしてわずかに、ネットから恩恵を受けた私はネットに恩返ししようと思った。ジャロン・ラニアー先生の「人を道具として扱うな」という教えにも賛同した。この現代語訳をweb上に置いたのには、そうした理由もある。
→『人間はガジェットではない』(ハヤカワ新書juice)

虎は死んで皮を残す、という。私ごときは何も残せないが、例え死んでもgoogleサイトなら、後世に残ってくれるだろう。もちろん私は死ぬ気など全然無いが、天が死ねと命じたら、全ての生き物は死ななければならない。それはいつやってくるかわからない。

ソ連崩壊から四半世紀後の今、『貧乏物語』は、経済論としてはもはや役立たないだろうが、必ず役に立つと私は確信している。読む価値を認める後世の人がもしいたら、たかが第十三部程度の長さ、必ず自分で読んでしまうだろう。

読みたくもない文章を読むほど、人生に余裕は、無い。

そして後世に残す価値ありと確信できる仕事が出来た私は、まことに幸せだ。宇宙は人の数だけある。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)