現代語訳
考えてみれば、人間に大切なものは3つある。その1つは肉体であり、その2は知能であり、その3は精神だ。だから人間の理想的生活といえば、とどのつまりこれら3つを健全に維持し、発育させることになる。たとえば体がどんなに丈夫でも、頭が鈍くては困る。また体もよし、頭もよいが、人格がいかにも下劣だというのでも困る。
というわけで、肉体と知能と精神、これら3つの自然な発達を維持するため、言い換えればその天分に応じて、これら3つを伸ばせるだけ伸ばすため、必要な物資を得ていない者があれば、それは全て貧乏人と呼ぶべきだ。しかし知能とか精神とかいうものは、すべて形が無く、体のように物さしで長さを計ったり、はかりで目方を量ったりすることができない。
だから、実際に貧民の調査をする場合には、都合上貧乏の基準を大いに下げて、ただ肉体にのみ注目する。体の自然な発達を維持するための物を、仮に生存に必要な物と見なして、それだけの物を持たない者を貧乏人とする。それが、私のいう3つめの貧乏人である。
2つめの貧乏人:他者の施しで生活する貧乏人
3つめの貧乏人:体の健康維持にも差し支えている貧乏人
さて、この肉体を維持するに最も必要なのは食物だ。これはもろもろの学者の精密な研究の結果、西洋では大人の男子で普通の労働をしている者は、まず1日3,500カロリー〔旧単位。現3,500kcal。以下同※〕の食物を取ればよいとわかっている。有名なローンツリー氏の貧民調査などは、これを標準としたものだ。
ここに1カロリーというのは、水1キロを摂氏1度だけ高めるのに必要な熱の分量である※。たとえるなら人間の体は蒸気機関のようなもので、食物という石炭を燃やさなければ運転しない。そこで、体の運転に必要な食物の分量を、科学的に計算するには、米何合とか肉何グラムとか言わずに、すべてカロリーという熱量の単位に直してしまうわけだ。
ならば人間の体を維持するのに、ちょうど必要な熱の分量をどのように算出するかと言えば、様々な学者のいろんな研究がある。たとえばその一例を挙げると、囚人に毎日一定の労働をさせ、それに一定の食物を与えて、その結果を見ていくのがある。始め充分に食物を与えずにおくと、囚人らは疲れて眠たがる。何か注文があるかと聞くと、ひもじいからもっと食べさせてほしいと言う。そうして体量をはかっていくと、だんだん減っていく。
そこで次に、食物の量をずっと増やしてみる。そうすると体重は増えだす。何か注文があるかと聞くと、今度はもう少しうまい物を食べさせてほしいと、ぜいたくを言いだす。食物に対する欲求が、分量から品質に変わってくるわけだ。英国のダンロップ博士がスコットランドの囚人について試験したのは、この方法によったものだ。
この時のデータ(1900年パリで開催された第13回万国医学大会において報告)によると、2ヶ月間毎日3,500カロリーの食物を与えておいた時は、普通の体重がある囚人のうち、約82%の者は次第に体重が減ってきた。次に3,700カロリーの食物を与えてみると、約76%の者は、次第にその体重が増加するか、または維持することができたという。
つまりこの時の試験によると、3,500カロリーの食物では少し不足となる。しかし試験対象の囚人は、日々石切り仕事をしていた。相当激しい労働をしていたわけで、現にダンロップ博士自身も、普通の人で軽易な仕事をする者なら、3,500カロリーで充分だろうと言っている。そこでローンツリー氏の貧民調査などでは、前に述べたように3,500カロリーを、普通の労働に従事する大人の男子に必要な、1日分の熱量と見なしたわけだ。
(9月13日)
訳注
※1824年ニコラス・クレメントが、「水 1 kg の温度を1℃上げるのに必要な熱量」をカロリーと名づけた。これは 1 kg に基づいているので、MKS単位系の単位である。これは現在のカロリー(CGS単位系)の定義では 1,000 cal = 1 kcal にあたる。(wiki)
なお07-09年平均での、日本の供給カロリーは、2,771kcalという。
(上記リンク先より)
またこの節では熱量のみを論じ、その他の栄養素についての言及がない。日本で栄養学が芽生えたのは、佐伯矩(さいき・ただす)が1914年に営養研究所を創設してからとWikipediaは言う。
司馬遼太郎『坂の上の雲』では、秋山好古が「腹が膨れればいいじゃろ」と言って粗末な食事で済ませた描写と共に、「栄養を取らねばならないという概念はすでに入っていた」と記す。この点Wipipediaには、「1871年(明治4年)に、ドイツ医学で教えたドイツ人ホフマンによって栄養についての知識が日本に伝えられた」とある。
しかし原文発表時の1916年でも、言及がないほど栄養学には関心が低かったと言えそうだが、その一例が軍隊における脚気の流行で、陸軍では軍医総監だった森鴎外が細菌原因説に固執したため、1984年の日清戦争では大量の戦病死者を出した。